天才という名の二つの像 (Part 1)

天才とは一般的には、「天から与えられた才能( a natural gift)」という解釈をされることが多く、知能指数(IQ)や身体能力などに割り当てて判断しようという傾向が強い。

だが、現代の天才という言葉が指すものは、神や親から与えられた何かというものではなく、単に個人の功績や経験を推し量る上で大変便宜的に用いられた言葉に過ぎないと考えられる。

要するに、現代の天才とはあなたの意識を想い巡らすことが出来ない他人ほどより使いたがる「優」という評価に過ぎないのだ。

あなたの意識の考えに、
想像・予測をしない…、共感を求めない…、分からない…、
理由はともあれそのような思考停止な状態で「優」という評価付けをする際に便宜的に使われるのが、現代の天才という言葉であるのだ。

心情や経験を想像・共感することが難しい過去の偉人達が、
時代を積み上げる毎に天才という言葉で片付けられやすくなるのは以上が理由であろう。

なぜこのような事態に陥ったかというと、
個人の意識とは精神上で内的にアクセス出来ても、物理上で外的にアクセス出来ないからである。

つまり、あなたがどんなに綺麗な風景を思い浮かべても、他人が物理的に測るにはモノクロの脳の血液の流れから分析するしかないのだ。

ルネ・デカルトはこのような意識と物理的次元の関係の乖離を「脳の一部(松果腺)が魂の出入り口」であると考えた。
また、ギルバート・ライルはこれを「機械の中の幽霊」と呼んでいる。

だから、他人は物理的に予測するという方法を取らず、自分のなかで膨大な量のあなたの経験や心情を集積し、またほとんどの足りない部分を自分の経験や心情で補充し、あなたのちっぽけな虚像で、あたかもあなたが自分の中に存在しているような錯覚の中で想像する。

そう、だから結局、他人はあなたについて膨大で具体的な知識を持っていない以上、あなたの意識を確実な再現性では想像できないのである。

このような意識の想像というプロセスの難しさが、思考停止を多いに招いているため、現代の天才という言葉は意味が拡張した便宜的な言葉になってしまっているのだろう。

(意識については、一方で、ゴットフリート・ライプニッツのように精神と物質を二元的にとらえる存在論とはまったく異なる、モナド論を唱えた人物もいる。)

現代の天才という意味合いについての私なりの解釈を説明したところで、天才という言葉がどんどん意味を肥大化してしまう一方、それでは本来は、天才という言葉はどのような人を指し示しめたかった、指し示すべき概念なのかという考えを紹介したいと思う。
本当の天才というのはどのような人かという私なりの回答を…

続く。

One clap, two clap, three clap, forty?

By clapping more or less, you can signal to us which stories really stand out.