シン・ゴジラを観てきました(2回目)
二週間ぶり二回目のシン・ゴジラを観てきた。
結論から言うと相変わらず最高だったのだけど、開始10分~15分ぐらいでは、「あ、これは記憶を消して観たいやつだ……」と思った。もしこの文章を読んでいる中にまだシン・ゴジラを観ていない方がいるのであれば、今すぐ観に行って欲しい。いらんネタバレを喰らう前に。
どこかのブログにも書いてあったが、シン・ゴジラにおいて観客は初代ゴジラ以来と言っていいレベルでゴジラとのファーストコンタクトを体験する。第一形態、第二形態という仕掛けによってもたらされるそれは、二回目の鑑賞ではもう体感することはできない。
さらに、ゴジラという「状況」がどう変化していくのか、どう収束していくのか、はたまたしないのか、一回目の鑑賞時にはわからなかったのだ。果たして日本はゴジラに勝てるのだろうか、もしかしたら……という考えを頭の片隅に置いたまま観ていた。だって、監督庵野秀明だし。だって、ゴジラがあまりにも強いし。
ゴジラとのファーストコンタクトも、状況の追体験も、初見が最大であり、それが特に顕著な映画であることが分かったという意味で、二回目の鑑賞は有意義だった。
ただし、じゃあシン・ゴジラは二回目からは面白くないのかというとそんなことはない。冒頭にも書いた通り、相変わらずこの映画は最高だった。10分ぐらいの時に記憶を消したいとは思ったが、その後は分かった上で楽しめたし(そもそもそうでないと二回目観に行こうと思わない)、これは自分でもびっくりしたのだけど、ヤシオリ作戦開始のあたりでは、二回目でも泣きそうになった。というか二回目の方がちょっと泣いた。
なお、一回目の感想は以下。
一回目の感想で書き忘れたことなどを書くと、僕が怪獣映画に求めていて、かつこの映画で満足できたのは、怪獣のいる風景を見たいということだった。
巨大な怪獣が実体としてそこにいる感覚。この感覚をうまく伝えるのは難しいのだけど、アンチパターンで説明すると、平成ウルトラマンシリーズでは特によくある(気がする)、対峙する怪獣(とウルトラマン)の全身を横から映す構図、これは巨大感がない。みんながよく知ってる大きい建物をとりあえず一緒に映す、これもイマイチ。
なんというか、巨大さを表現するのに別の大きいものは必要ないと思っていて、平屋の家が向こうまで並んでいる風景の中で遠くに見えるゴミ焼却場の煙突とか、灯台みたいな高い建物からほぼ真下を見た海に見えるクジラみたいな影とか、夜の道路で車のライトに照らされる送電鉄塔とか、そういう日常の風景にある巨大感(クジラの影は日常にはないけど)で、表現されている怪獣映画が見たいのだ。
あとは、重量感。例えば『パシフィック・リム』を観ていて不思議だったのは、なんで怪獣を軽快に動かすんだろうっていうことだった。あの映画は、他にもメカの壊れ方がヤワいとかイェーガーの名前とか、主にケレン味の面で言いたいことがあるのだが、怪獣映画好きで作ったんだろうになぜ? って思ったのはそこだった。あとメカのヤワさ。
重量感をうまく表現して使い分けてる作品として、映像作品ではないが『ワンダと巨像』を挙げておきたい。巨大な敵を軽快に動かしているのは何もパシフィック・リムだけではなくて、モンハンとかモンハンとか、モンハンみたいな多人数協力プレイの狩ゲーなんかは、だいたい軽快に動く。あとはこれもゲームの話になるけど、大抵重いというか硬い。攻撃しても特に反応がなくて、一定量のダメージを与えた時だけグワァーってなってズズーン、必殺技を叩き込め! 叩き込んだら起き上がって以下ループ、みたいなのが多い。そんな中においてワンダと巨像は一線を画していて、巨像にも、巨像の攻撃にも、質量が感じられる。基本的に巨像の動きはゆっくりで、一歩一歩が地面を揺らすし、振りかぶってパンチなど繰り出そうものなら、パンチを避けても衝撃で立ってられない始末だ。巨像の中には多少軽快に動くものもあるが、それらは基本的に小さいか、空を飛んでいたり水の中にいたりする。要するに地上にいるでかい巨像は重くてゆっくり動くのだ。
巨大な怪獣を軽快に動かしちゃうと、なんか全部ジュラシックパークになるというか、USゴジラ(エメリッヒ版)になるというか。怪獣映画というより恐竜映画だ。シン・ゴジラというのは、基本的にはゴジラがただただ歩いている、それだけの映画だ。それだけで政府は翻弄され、東京は壊滅し、ゴジラは日本と世界にとって圧倒的な脅威となる。ゴジラは身を隠したりしないし、何かを追いかけたりもしない。ただただ巨大な怪獣が一歩ずつ街を壊滅させながら歩き続ける。それだけで圧倒的であり、それゆえに圧倒的。
『シン・ゴジラ』は紛れもなく純粋な怪獣映画であり、怪獣という虚構を限りなくリアルに現実に登場させている映画だ。何度でも観たい。