私がベーシックインカム懐疑論者に転向した理由

以前ベーシックインカムの導入を訴える文章を書いたことがあるのだが、『ゲンロン0 観光客の哲学』を読んでから考えが変わった。

ベーシックインカムの何が問題か

ベーシックインカムの大前提である「全員一律」という福祉原理は、「誰が『全員』に含まれるのか」というメンバーシップの確定を必要とする。それは同時に、新たにメンバーシップを得ようとする人間を排除する論理に帰結する。言い換えれば、ベーシックインカムは「友敵理論」の政治と不可分である。

そもそも「セイフティネット」とは「安全網」であり、「高所からの転落を防止する網」であって、転落者のための安全装置である。ベーシックインカムはどうだろうか、まだ転落していない人にも「全員一律」に給付されるのであって、定義上「セイフティネット」とは呼べない。より妥当なメタファーは、例えば「底上げ」のようなものだろう。

ベーシックインカム制度がその受給資格者(メンバー)に与える権利が大きくなればなるほど、排外主義的なナショナリズムが強まり、暴力的な移民排斥のような問題が増えることは自明だろう。いまでも在特会のような外国人住民排斥運動があるのに、それがより強く、より広範な運動になっていくだろう。それは決して望ましい社会の姿ではなく、避けられなければならない。

何が悪かったのか。メンバーシップにもとづいて「全員一律」に給付するというベーシックインカム制度がよくないのである。したがって、私たちはベーシックインカムではない形、抽象的に言えば「メンバーシップ原理ではない形」の福祉の充実を考えなければならない。それはどういう形の福祉だろうか。

第一に、生活保護や失業保険や教育訓練給付のような、言葉の本来の意味での「セイフティネット」を拡充すべきではないかと思う。転落した人を助けるための安全網。誰が転落するかは偶然であり、事前には決定できない。あくまでも確率論的な安全装置。いわば「保険」の原理だ。(なお、このようなセイフティネットの一部もまたメンバーシップの既得権であることを確認しておく)

第二に、自発的な寄附を通じた福祉、いわば政府を介さない福祉の流れを、もっと大きくしていく必要があるのではないかと思う。政府が強制的に徴収する税の使い道とは関係ないので、それは「政治」の問題にならない。また、非営利団体が支援をするとして、それを受ける資格の条件は「国民」や「住民」である必要はない。非営利団体が独自に定めた基準で支援することができる。このように、寄附による福祉は「友敵理論」の外側で行われる。『ゲンロン0 観光客の哲学』に倣えば、「誤配の原理」と言える。

国民国家のメンバーシップが問題なら、グローバルにすればいいのか

このような議論に対して、次のような批判が予想される。「国民国家単位のベーシックインカムが排外主義的なウルトラナショナリズムに帰結するなら、全人類を対象とするグローバルベーシックインカムを実現すればいいではないか」と。

しかし、子供を産めば自動的にベーシックインカムの受給権が発生するという条件ならば、それ目当ての子作りが増えるだろう。おそらく最貧国において人口爆発が顕著になる。そのようにして受給者が増えれば、それを財政的に支える先進国の人々には不満がつのる。グローバルな政治的分断が深刻化し、政治的緊張やテロの脅威も高まることになる。

このような事態を避けつつグローバルベーシックインカムを実現するためには、「全世界の人口総量規制」が必要となる。つまり、人々から「自由に子供を作る権利」が剥奪される。「まだ生まれていない人間」をメンバーと認めず、「メンバーシップの新規認定を適切に管理」するということだ。

人々から「子供を作る自由」が失われた社会を「全体主義的ディストピア」と呼ぶ。

そのような社会では、政府に認定されない闇医者「地下産院」で出産が行われ、「アンダーグラウンドベビー」が増え、彼らがつくる「地下社会」の存在が社会問題化することになるだろう。結局「完全なメンバーシップ管理」など実現不可能なのであって、人類は自らの愚策に復讐されることになる。

結局、定義上「全員一律」に給付されるベーシックインカムは、そのメンバーシップの範囲を「国民国家」に設定するにせよ、「全人類」に設定するにせよ、なんらかのメンバーシップの確定とその管理を必要とするのだ。

「地獄への道は善意で敷き詰められている」と言われるが、「子供を自由につくる権利が奪われる」ような全体主義的ディストピアを実現する「福祉制度」を私たちは導入すべきではない。

要は「全員」を想定することが問題の根本なのである。その論理を迂回して福祉を充実させるには、言葉の本来の意味での「セイフティネット」を拡充することと、政府を介さない「民間の寄附」の流れを太くすることの二つが有望であろうということは前述のとおりである。

情報アーキテクトの役割

さて、ここから情報アーキテクトの話につなげていきたい。

情報アーキテクトが現代政治に貢献できるとすれば、それは普遍主義的な正義の原理ではなく、「現実に人々が生きる生」における意味性、いわば「エクスペリエンス」の原理によって政治制度の設計に貢献することだ。正義の理念と現実とのギャップを、意味論的デザインによって埋めるということだ。(「デザインはポスト工業社会を迎えるにあたって意味論的転回を遂げるのだ、とクラウス・クリッペンドルフは論じた。)

なぜ「普遍主義的な正義の原理」ではなく、「『現実に人々が生きる生』における意味性」だ、などという言い方をしているのか。それは、前者が「近代の合理的な人間像」であり、現実の人間とかけ離れているからだ。例えば経済学は「不合理な人間像」を取り込むことでアップデートされた(ダニエル・カーネマンらの業績によって発展した行動経済学)。このようなアップデートは経済学だけに留まるべきではなく、あらゆる人文知が不合理な人間像を前提としてアップデートされるべきなのである。さらに、不合理な人間をうまく操作(ナッジ)して、その本人にとっても、社会全体にとっても、よりよい行動がなされるように社会を設計すべきなのだ。(ジョセフ・ヒースはこのようなプロジェクトを『啓蒙思想2.0』と名付けた。)

具体例を出そう。例えば、人々が「つい寄附したくなってしまう」「寄附しようと思っていないのに寄附している」ようなアーキテクチャを設計するということは可能だ。このように「人々の道徳性を向上させるようなアーキテクチャ」を、ルチアーノ・フロリディは「倫理的インフラストラクチャ」あるいは「インフラエシクス」と読んだ。具体例は(RED)オクスファム・チャリティ・クレジットカードJustGivingZopaである〔The Ethics of Information by Luciano Floridi, pp. 267–269, 2013〕。

情報アーキテクトは「概念の設計」によって人間社会を構築するプロフェッショナルである。これは決して新しい定義ではないだろう。その本質は太古のアーキテクトと変わらないのだから。聖堂や王宮や図書館の設計という課題の延長に、ウェブサイトやアプリやサービスの設計という課題がある。思想を実装するという課題は変わらない。‬

人は聖堂を訪ねたとき、その教会に寄附したくなるのではないだろうか。日本人なら神社に行ったら賽銭を入れたくなるだろう。このようにインターネット上で人々を「寄附したくなる」ようにさせることが、情報アーキテクトには可能だ。

情報アーキテクトは、なんらかの世界観を明晰に言語化し、体系化し、コード化し、実装することによって文明社会を構築する仕事である。そこには必然的に設計者としての道徳的責任と倫理的責任、レスポンシビリティとアカウンタビリティが伴う。‬

そのような前提から「インフラエシクス」について考える必要がある。

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