IAMAS20 Calculated Imagination: IAMASが発信するメディアアート展を見た

IAMAS20 Calculated Imagination: IAMASが発信するメディアアート展」内のイベントとして3月12日(日)に催されたアーティストトークは、とても面白いものになりました。

  1. トークも締め括りに入ろうかというタイミングで、参加アーティストの山城大督氏が展覧会のキュレーションを批判しました:IAMASとして明確なビジョンが示されていない。6組のアーティストが単に寄せ集められただけに見える。キュレーションが弱い。
  2. それに応答して、本展キュレーターの伊村靖子氏が客席から発言しました:「一見バラバラ」に見える参加アーティスト達の中に共通の「潜在性/可能性」を読み取れる。
  3. さらに、次期学長の三輪真弘氏が舞台袖から発言しました:作品になっていない産学連携プロジェクトなども含めてIAMASの活動を総合的に展示したほうが、IAMASの紹介としては正確だったかもしれないが、ここラフォーレミュージアム原宿で行う展示としては、卒業生たちの活動やスタンスを見せる本展は妥当ではないか。
  4. それを受けて、ラフォーレミュージアム原宿の武村俊氏が舞台袖から発言しました:本展は当館からIAMASに声をかけたのがきっかけ。ここラフォーレ原宿という立地でやる意味としては、この付近にいるファッションショッパーやサブカル若者たちを意識しないといけない。そして展覧会はエンターテイメントでなければならない。そのようなリクエストを受けてキュレーションして頂いたものと思う。
  5. そこから質疑応答に移行するも、客席の質問者は山城氏からの返答を促しました。議論が中途半端に終わってしまっては満足できないと。
  6. それを受けて、山城氏から「整理できていない」と断りつつも応答がありました:たしかにIAMAS卒業生はみなメディアへの批評的なスタンスを叩き込まれている。必ずしも最新テクノロジーを使うことだけが正解ではなく、それすら疑うスタンスがある。

〔※あるいは私の記憶違いにより、発言順に誤りがあるかもしれません。〕

予定調和的なトークイベントが急展開したのは、最初に議論(ケンカ?)をふっかけた山城氏の功績です。そして、一連の流れの最後に再び山城氏にマイクを回した質問者もGJでした。

— -

一連の議論から、IAMAS20展が提示しているのは、作品群から立ち現れてくる「IAMASが発信するメディア(アート)のビジョン」というよりも、アーティスト群の活動から立ち現れてくる「IAMAS的なメディア(アート)へのスタンス」なのだと思いました。

具体的には、次のようなスタンスです:必ずしも最新テクノロジーを使うだけがメディアアートではない、それは20年前の古いメディアアート観に過ぎない、もはやテクノロジーがコモディティとして大衆化(民主化)した現在、メディアアーティストの役割は変わったのだと認識しなければならない、それは「自律した作品の制作」から「環境/システムのデザイン/への介入」というシフトである、日常的にテクノロジーに触れて生活している現代人のリアリティに介入/をハックすることなのだ、というスタンス。

三原聡一郎氏は、放射線を「可聴化」する「鈴」という作品を制作しました。我々に知覚できない有害な侵入者、「邪悪なもの」としての放射線を、風鈴によって表現しています。その意味は、かつて鈴が人の領域と外界との境界に設置され、外やってくる「邪悪なもの」を検知し、祓う機能を持っていた、という文脈に重ねられています。つまり、放射線という「邪悪なもの」を意識せざるを得ない、福島第1原発事故後の環境を表象しているのです。

なお、「邪悪なもの」という概念は、吉川裕之著『人工物工学の提唱』(1992)から引用されています:

歴史的に言って,科学技術,あるいはもっと古く学問と呼ばれるものは,時代々々の「邪悪なるもの」に対抗し,そして打ち勝って来たのだと考えてよいだろう.

つまり、「未だ打ち勝たれていないもの」が「邪悪なもの」なのです。現時点の原子力技術、例えば核廃棄物処理技術、核燃料サイクル技術、廃炉技術などは、未だ「邪悪なもの」に打ち勝っていません。「邪悪なもの」が私たちの生活圏に侵入してくることを許してしまっています。つまり、「未だ打ち勝たれていないもの」として放射能や放射線を「邪悪なもの」と呼ぶのは、極めて正確な比喩だと言えるでしょう。

この作品の鑑賞者は、「いまここにも(私の身体にも)放射線が降り注いでいる」という現実を認識させられます。ガイガーカウンターの測定値を見せられるようなものです。しかし、このアート作品は、それとは異なった経験をもたらします。例えば、次の夏に風鈴の音を聴いたとき、この作品を思い出し、そしてその瞬間に自身の身体を通り抜ける放射線に、想いを馳せることになるかもしれません。このように鑑賞者のリアリティに介入/をハックしうる作品だろうと思います。

(とはいえ、この説明だけで、三原聡一郎氏の活動を「自律した作品の制作」というよりも「環境/システムのデザイン/への介入」であると言うのは不十分でしょう。鑑賞者が自身の生活環境について抱くリアリティに揺さぶりをかけるのような作品は、決して新しいものではなく、むしろメディアアートのインスタレーションとしては古典的な常套手段だと言えるでしょう。したがって、本来ならば、他の作品にも言及すべきですが、本展に出展されていない作品への言及は避けておきます。なお、アーティストトークでは、三原聡一郎氏自身によって、これまでの活動について語られました。私の記述はそれに基づきます。)

石塚千晃氏は、商品として流通するニンジンと、野生のニンジンと、バイオテクノロジーにより還元せれ改変された細胞塊(カルス)とを並べて提示します。我々が普段食しているニンジンは、品種改良というバイオテクノロジーによって作られた「人工物」です。それだけでなく、栽培においてより美しくなるよう育てられ、流通の過程で不良品は選別され、食卓に届くという点でも「人工物」だと言えます。

つまり、この作品は、野菜をテクノロジーによって「人工物」に改変している現代消費社会に対する、批評的な作品です。我々が「自然の恵み」と考えがちな農作物を「人工物」と見立てる新たな視点を、鑑賞者は得ることができます。次にニンジン料理を口にするとき、そのことに想いを馳せるかもしれません。

石塚千晃氏の作品からも、「日常的にテクノロジーに触れて生活している現代人のリアリティに介入/をハックする」というスタンスを見ることができます。

村山誠氏は、自然物である植物を解剖し、分析し、リバースエンジニアリングした結果を、工業製品の設計図を思わせるダイアグラム(図)によって表現します。それは植物の正確なイラストレーションであるボタニカルアートと、機械図面でありながら美しさを訴求するテクニカルアートとの文脈を併せ持つ、「ボテックアート」(botech art)です。

つまり、村山誠氏においては、普通対立するはずの「科学的正確性」と「美的表現」とが見事に融合しています。科学と芸術、自然物と人工物、分析とデザイン、そういった二分法を私たちは自明視しがちです。しかし、この作品はその自明性に疑いを投げかけます。その点では、石塚千晃氏の作品との共通性を見出すこともできます。

一見、美しいボタニカルアートのようでいて、よく見ると三次元コンピューターグラフィックスとしモデリングされ、「機械製図」の文法で作図されたダイアグラムになっている。この経験は鑑賞者に、「自然の花の中に機械的な美を見出す視点」を与えるにとどまりません。「自然の花もまた人工物なのではないか」と想像させるかもしれません。

あるいは、こうも考えられます:自然物を正確に描いたとされるイラストレーションも、その制作者の審美眼によって、要素が取捨選択されたり、より「美しい」形へと整形されたりして、制作者の「イデア」を表現しているのだろう、たとえ「人為性の介入する余地のない」立体スキャンをするにせよ、どのような状態の被写体を選ぶかには、必ず意図がある、萎れた花や、枯れた花は選ばないだろう、ならば、「科学的に正確で客観的な描写」とは、そもそも一体なんなのだろう、そもそもそんなことは可能なのだろうか。

やはり村山誠氏の作品からも、「日常的にテクノロジーに触れて生活している現代人のリアリティに介入/をハックする」というスタンスを見ることができます。

— -

やや強引にまとめてしまいましたが、長くなってきたので、この辺にしておきます。ともあれ、見てよかったです。

Show your support

Clapping shows how much you appreciated Hideto Ishibashi’s story.