長くつづく道

イワサキハナエ
afterwecameback
Published in
Jul 27, 2023

ふいに目の前に現れたその文章は、今まで私が考えてきたことをまさに実験として記録していた。これまで「女子校」と検索してもそれらしい本や論文は見つからなかったのに、友達の卒論の参考文献に書かれていた名前を検索してみると、「女子校で培われる女性性を脱ぎ捨てる経験」についての教育社会学の論文を見つけた。それは、卒論のドラフトを提出する三日前の出来事だった。

1992年に書かれたその論文は、筆者がある女子校に産休講師として赴任した際に行った研究だ。「男いなくても女だけで充分盛り上がれる」「(共学だと)かわいくしなきゃいけないっていうか、自分を作る。ねこをかぶらなくちゃいけない」「えーでもさーいったん女子校入っちゃうとさ外でさーけっこうポロッとでちゃう」などと、頷ける話がたくさん出てくる。しかも、49の仲良しグループ、合計131人に話を聞いたという。もし卒業プロジェクトをはじめようとしていた段階でこの論文を読んでいたら、自分でプロジェクトを進める意味があると思えただろうかと、突如として自分の現在地がわからなくなった。もう一度その人の名前で検索して他の論文を調べてみると、女子校に関する論文はこれを含む2本のみであった。青少年のジェンダーやセクシュアリティとの向き合い方に対する興味関心は、その後言語研究の方向へと向かわせたようだった。

プロジェクトをまとめる文章を書くべきときに、直接的に関係しないさまざまな文章を読みながら自分の立場を考える。初対面の人に卒論で何をやっているのかを聞かれたときに、答えたくないと思うこと。卒業プロジェクトとしてやっているからには分かりやすく説明する必要があるのにもかかわらず、あえて全てを伝えないようにしてしまうこと。安全性が確保されていない場所では論理性や真実味よりごまかしを優先してしまう様は、これが実証研究ではなくプロジェクトであることをはっきりさせる。

「まとめと今後の課題」と書かれた章を読みながら、ぼんやりと自分にとってのそれを考える。卒論として提出する文章を頭に思い浮かべたときに、一番最初に出てきたのはレスリー・カーンの『フェミニスト・シティ』だった。彼女の文章は、終始自身の経験や各国のプロジェクトなどを紹介するルポエッセイのような形式を取る。これまで私たちが受け入れていた街がいかに特権的な身体を元に設計されてきたかということをテーマにしているが、それを証明するような書き方でないのが興味深い。彼女にとってそれは自明の事実であり、だからこそ新しくも驚くことでもないというようにこれまでの経験をテーマに合わせて淡々と語る。それは今までいた場所も、これから目指すべき場所もわかっているというような、ある種の態度表明であると思った。

「まとめと今後の課題」という言葉は、何かを切り分ける機能を持っているように思う。今回と次回の間には、時間的な隔たりはもちろん、高低差も生じる。飛躍しなければ次回に移れないような、そして飛躍しなければ次回を用意しなくていいというような、そんな意味合いを含む。一方で、レスリー・カーンの文章からは長い道がただ続いている様子が思い浮かぶ。長い道のりの中で、進む方向は見えているからそこに向けて足を出す。その行為を描き出しながら、ときおり別の旅人との邂逅やある瞬間に落ちてきた岩について話をはじめる。もはやどこがはじまりなのかも分からない道のりは、当然終わりを設定することもない。ただこれまでいた場所と目指すべき場所がわかっているという、それだけのことだ。

これが一つのプロジェクトであるならば、切り分けられた小さなスケールを提示するのではなく、あるテーマを持って歩く人の道のりが分かることが、そのプロジェクトへの理解を進めるだろう。

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