井戸端の目撃者

イワサキハナエ
afterwecameback
Published in
May 25, 2023

古そうな家の前に小さなベンチがあったとき、「これはきっと井戸端会議用だ」と思う。その次に想像するのは、そこに座って話をするおばあさん二人の様子だ。私たちはそれを見て穏やかな気持ちになるかもしれない。また、それがもし路肩で立ち話をする子育て世代の女性たちだった場合、「無駄なおしゃべり」として軽視の目線を投げかけるかもしれない。どちらにせよ、井戸端会議というと(無駄に)和やかで、その一方で愚痴が多くて、噂好きで、生産性のない、(無駄に)長い会話として捉えられることが多い。しかし、ルソーやヴォルテールは啓蒙思想を、サルトルやヴォーヴォワールは実存主義をコーヒーを片手に永遠と議論した。何百年にも渡るその歴史と井戸端は、何が違うのだろう。

「ポッドキャストを撮りたくて」と呼んだりさちゃんは、パウンドケーキを片手に家へとやってきた。二人でケーキを少し食べてから、録音を始める。展示で見た映像の感想を聞いてみると、「女子校について思うことは感覚的な部分が多いから、他の人も同じような経験をしているということに驚いた」と話していた。そう、女子校について語るとき、私たちはなぜか感覚的なことしか言えなくなってしまうのだ。インタビューというのは、あるテーマに沿って用意した質問に答えてもらう。インタビューは文字に起こされ、第三者に読まれる。誰かの思考の論理にこちらの論理を照らし合わせ、なるほどと思う。しかし、女子校について私たちが持っているのは「何かがあるけど、うまく見えない」という実感だ。もし形式的な言葉を交わし読まれる形に整えたとしたら、その実感は綺麗なタイトルに塗り替えられてしまうだろう。だからこそ、まずはその実感を感覚的なまま表出させる必要があった。同級生の二人に、二人の言葉で女子校での経験を話してもらうことが最初のステップとなる。その映像を編集することで、彼女たちの体験や語りはいくつもの層となって、そして過去と現在を行ったり来たりしながら混ざり合う。二人にしか分からない名前や行事を、見ている私はよく分からないまま、それでも目の前で広がる会話を目撃する。異なる経験が一つの大きな文脈を共有しているということを示すために、この映像を体験するものとして位置づける必要があった。

ポッドキャストを始めたのは、映像をより体系的に捉え、会話を切り開いていくための試みだった。映像によって現れた「感覚的でうまく話せないけど知っている何か」を、今度は私が介入する形で一緒に考えていく。映像では「二人の言葉」であったものを詳しく見ていくことで、それに迫ることができるのではないか。調査の形として、インタビューやそのアウトプットの場には参加者がいるが、アウトプットに至るまでの思考や整理、概念化においては参加者は不在となることが多い。それは、インタビューではある問いを出発点として、それにたどり着くための質問と答えが積み重ねられるからではないだろうか。そのため、参加者の答えを手がかりに自分の中で落とし所を見つけるというプロセスになる。しかし、このプロジェクトにはそもそも質問がなく、偶然生まれた会話を拾い集めていくことが主題である。その拾い集めていく作業をさまざまな目撃者とともに行うことができれば、私たちが女子校を求めるときにどのような希望が含まれているのかが分かるだろう。

井戸端会議では、夫の愚痴や噂話が流れると言われる。もしヴォーヴォワールが井戸端に立つ一人の主婦であったなら、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」というあの有名な一説も夫に対する愚痴として一蹴させられていたのかもしれない。フランスのカフェのように、生活のある場面で生活から生まれた疑問や怒りが交わされながらも、その属性ゆえに語られるべきものとして扱われなかった場所だ。唐突にスポットライトを当てられた舞台は白く反射する。舞台全体ではなく、木や落ち葉、テーブルとコップの一つ一つを照らしていくことで、徐々に見えるものが増えていくのだ。

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