椅子の座り心地

イワサキハナエ
afterwecameback
Published in
Apr 26, 2023

歩きながら、ふとルース・ベーダー・ギンズバーグの言葉を思い出す。

(米最高裁の女性判事の人数について)もうこれで十分と言えるのはいつかと、聞かれることがあります。「9人になったら」と私が答えると、唖然とされます。でもこれまで、男性9人が判事でも誰も問題にしなかったでしょう

とてもシンプルで潔い答えに感心するが、同時に実現への果てしない道のりを思い、やりきれなくなる。最高裁判事に限らず、私たちの社会では男性だけで構成される空間はいくらでもあるのに、女性だけで構成される空間があっただろうか。想像できるだろうか。ギンズバーグが「9人になれば十分だ」と言った時に唖然とされるというのは、まさにその想像できなさに由来するだろう。100年も前にヴァージニア・ウルフが語った、女性という「たいへん奇妙な複合体」。それは、男性の書く文学においては女性は最も重要な登場人物であり全編にわたって登場するにもかかわらず、歴史的な記述はほとんど見当たらないこと。物語の中では深遠な思想が女性の口から語られるのにもかかわらず、実際は読み書きもままならない夫の所有物であること。100年が経って、この「たいへん奇妙な複合体」はいくらかその奇妙さを漂白したが、依然として形を保ち続けている。

歩きながら、「それでも」と思う。

女子校という空間は、この社会の中で最も分かりやすい女性だけの空間ではないだろうか。去年の夏、このプロジェクトを始めようとしていたときに中高の友達との会話を撮った映像では、お題を与えたわけではないのに女子校について2時間ほど話していた。なぜこの話をしていなかったのだろうという、無くしていたものをようやく見つけたような高揚感は、常にこのプロジェクトを続行させる。2ヶ月前のフィールドワーク展では、「蛍の光」が流れているのにも関わらず、ずっと自分の女子校での話を続けている二人組がいた。映像に関係のあることもないことも、とにかくたくさんのことを思い出してしまった様子で話していた。永遠に続く放課後のような高揚感は、映像に映る側だけでなく、それを見た側にも伝播していく。

一方で、年の離れた卒業生からは「このプロジェクトをどう使ったら面白いのか」というコメントをされることが多かった。私はこの場にいて、この映像について話すべきことがたくさんあるはずなのに、なぜかその人は別の場所に持ち込むことばかりを考えているようだった。少し前まで、映像を前にして溢れ出した記憶を言葉にしていく様子を見ていたからこそ、その遠い視点にぼうっとしてしまう。私たちはまだ、そんな遠くに行けるほど、今ここにある景色を見ていない。これまでの長い歴史の中で奪われてきた場所にようやく腰を据えることができたなら、まずはその椅子の形状や座り心地について語り合いたい。

その様子をより具体的に示すために、参加者とともに映像をふり返る試みをはじめたい。すでに展示した映像は、たとえるならヴァージニア・ウルフの『波』のようなものである。異なる経験であっても一つの大きな文脈を共有しているということを示すために、複数のグループに共通する語りを、あたかも同じ場で話しているかのように編集した。それによって見ている私たちは、多少の違和感とともに「判事全員が女性の世界」を垣間見る。今度はそれをより直接的な言葉をもってふり返ってみる。撮影時には話す内容を指定しなかったが、映像によって浮かび上がってきたキーワードをもとに集合体としての自分の会話を捉え直すことで、なぜ椅子の座り心地について話さなくてはいけないのかを示せるだろう。

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