知りえないことの外側をなぞる

ere nakada
afterwecameback
Published in
Jul 27, 2023

時おり周囲を見渡して、どこに何があるのかを確かめてみる。ここは私の部屋で、冬に弱ってしまった植物は今は元気に葉を広げていて、足で床をさわると埃やらなんやらですこしざらついていて、机の上には卒論で引用するために持ってきた本が数冊積まれたままになっている。しかしそれ以外のこと、つまりこの部屋の外で起こっているいろいろなことや、誰が生きていて、誰がそうではなくなったかということは、この部屋から確かめることができない。たいていの出来事に実感は伴わない。「それが起こった」というある特定の一時的な認識も、記憶に変わってしまえばそれが本当に起こったのかなんていうことはもう区別がつかないものになる。あるひとつの出来事を目の前にしつづけることなんてできないからだ。

この卒業プロジェクトでは、さまざまな立場の人から映画やドラマの制作過程において彼女らが経験した話を聞かせてもらった。実際に起こった出来事でありながら、なんとなくその経験から距離を取るように話していたことが印象的だった。そういうばこういうことがあって、とダンボールからものを淡々と取り出すように話は語られていく。私はその経験が起こった様子を想像しながら、追体験するように映像を思い浮かべる。しかしどのように試みたとしても、その出来事を私が体験したことにはならない。夢はどこまで行っても夢のままであり、自分が現実で体験しているわけではない。卒論を書きながら、どのように私はそれらの体験を表象すればいいのか、そもそも他者の体験を具体性をもって描き直すというのは他者の経験を侵犯する行為なのではないか、と改めて考えるようになった。

到達不可能なものに対して倫理的な感情が芽生える、というカントの主張を引き継いだリオタールの崇高論には、普通のしかたで表象されない呈示不可能なものを間接的に表象するという枠組みがある。リオタールは、クロード・ランズマン監督『ショアー』とスティーヴン・スピルバーグ監督『シンドラーのリスト』を比較しながら、ホロコーストと呼ばれる歴史的な事実をどのように表象するのか、それは表象しえるのものなのかということを考えている。ナチスはほとんどの強制収容所を撤退時に焼き払ってしまったため、それがそこで行われていたという直接的な証拠はあまり見つかっていない。ホロコーストはあらゆる次元で表象不可能なのである。当時の生存者や関係者、歴史学者などからの証言を集めて映した『ショアー』では、行われた殲滅を表象不可能なまま呈示しているとリオタールは主張する。そして『ハイデガーとユダヤ人』において、「「アウシュヴィッツ」をイマージュや言葉で表象することは、それを忘れさせるひとつのやり方なのだ」と当時の様子を映画内でフィクションとして−表象可能なものとして−再現する『シンドラーのリスト』を批判している。

しかしリオタールが『ショアー』をそうであると言っているように、知りえないことの外側をなぞり、表象不可能なまま呈示することは本当に可能なのだろうか。ジャック・ランシエールは、ランズマンがヘウムノにある空き地を実際よりも広大に映し、語りに釣り合った映像を見せようと意図してカメラを利用していると、『イメージと運命』において言及している。リオタールがしているような倫理的な要請に対してどのように向き合えばいいのかがよりわからなくなった。

レアード・ハントは『インディアナ、インディアナ』という小説で、手紙や記憶の記述によって、その主人公がもつ喪失感の輪郭をうつしだしている。『ペンギンの憂鬱』でアンドレイ・クルコフは、閉園する動物園からもらってきたペンギンの様子を通して、混沌とした90年代のウクライナに住む主人公が抱える現実のからっぽさを描いている。どちらの小説においても、詳細な理由や背景を示すことや、主人公の行動や感情の因果関係をきれいに整理することはしていない。ある特定のものを表象しているからといって、全てのことを掬い、見せてくれているわけではないのだとわかるフィクションとしての語りは、表象不可能性を考えるうえで重要な道しるべになると思う。インタビューした人の話を物語として再構築する上で、ある人の経験に入ることよりも、入りそうで入れないような距離のとり方を考えていきたい。

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