愛と哲学

Hiroshi Murakami
Ashoka Japan
Published in
4 min readNov 14, 2017

11/3–5の三日間、山梨県は山中湖畔でYVの合宿に参加してきました。

「僕はほとんどの人との間に壁を感じる。」

高校を辞めてから色々もがいて頑張って、今では同年代の友達だっていっぱいできたけど、ほとんどの友達とは一緒にいても孤独だって感じる。違う世界を生きてるんだろうなって思う。そう感じない同年代の友達は片手で数えるほど。あと好きな音楽笑

多分それは、僕が目に見えないものや自分すら理解できないもの言語化できていないものを大切にしているから。 そして、様々な事が共通認識できている前提として進められる関係性の中で、そういうことを話そうとするからだと思う。

その一方、ASHOKAと関わり始めて一年弱、深く関わり始めて約1ヶ月経って関わった人との関係の内、ほとんどで孤独だと感じない。「自分の居場所はここだ」って思った。同時にやっぱり自分には今まで本当の居場所なんてなかったんだなぁって思った。

みんな違う価値観を持っていて、その価値観を体現しているのに孤独だと感じないコミュニティ。そんなコミュニティを求めてた。

多様性があるコミュニティはいくらでも出会ったけど、どれも仕方なく認めてて、めんどくさいことになったら「まぁ考え方は人それぞれだからね!」で強制終了。人の気持ちとか考え方とかは形がないから理解しづらいし、現代社会は忙しいけど、理解しようと努力をしないのは、僕は寂しいし虚しい。でも、合宿にいた人は全員、僕という人を深い所で理解しようとしてくれた気がした。

初めて安心感ってものを感じられた。初めて帰属意識を感じられた。

相対的に今の自分の環境にある程度満足してたけど、理想には全然届いてなかったんだなぁって思った。

そんなコミュニティに出会ったことで起こった僕の変化がすでに1つ言語化できました。

今まで「もっと人の意見を受け止めたほうがいいんじゃない?」って言われたりとか「表現を変えたほうがいいんじゃない?」とか言われてもそれ自体を受け止められなくて。

「それは外から見た印象の問題じゃないの」とか心で思ってたり「自分が言葉を発するってことは自己表現だから、自己表現において自分が使わない言葉を使いたくない」とか思ってたりして。

どこを切ってもどの人が見ても、僕が見える金太郎飴がいいんだって。どうせその助言の裏には否定しかないんだろって。多分思ってた。自分が見たいように自分と周りを見ていた。わがままで都合がいい。

でも、それはありのままの僕が認められる環境に今まで出会えてこなくて、自分に余裕ってものがなかったからじゃないかなって。ASHOKAに入った今、ちょっとずつ違う意見に耳を傾ける余裕が出来てくるんじゃないかなって。自分を多面的に見て、嫌いな自分も醜い自分も含めた全ての自分をまず受け止める余裕が出来てくるんじゃないかなって。人を受け入れる余裕も人のために何かをしたいと思う余裕も出来てくるんじゃないかなって。

こんな環境にずっといたい。こんな景色をずっと見続けていたい。もっと色んなところで見てみたいって素直に思った。夢がアップデート。

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