現実という流動体の上で。

Hiroshi Murakami
Ashoka Japan
Published in
4 min readFeb 26, 2018

最初に告知させてください笑

3/5 (月)の夜に京都でイベントやります!「進学校を中退した僕達と語る。これからの生き方と学びの在り方。」という名前で。参加者と一緒に対話してお互いに変容したいなーみたいな。それぞれが自分の美を見つけられたらいいなーって僕は思ってます。

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2017年の秋から終わりまで。自分の内側の探求の旅をしてました。たから18年は「動」のターン。公表したのはこれが初めてですが、年明けから水面下で様々動いています。

はい。

気仙沼大島亀山山頂

1月末から10日間ほど宮城県に行っていました。以前YVプログラムの代表を務められていた方が代表をされている底上げという認定NPO法人にお邪魔させていただいてました。気仙沼、南三陸、仙台と。

自分の内側の探求が一段落ついて、これがやりたいんだっていうことは固まったので、今度はそれを実現する方法論を探してたんです。その方法論探しの旅の一つとして行きました。

気仙沼の高校生マイプロジェクトアワードの最終報告会を見に行ったり、南三陸の高校の部活動にお邪魔したり、大島の小学生と遊んだり、高校生と語ったり。底上げのオフィス改修したり、水族館行ったり…笑

全部書いてたらキリないくらい色んな事しました。仙台の高校生とプリン作ったり、以前から知り合いが気仙沼でやられている学習塾にお邪魔したり。

だから思ったこともいっぱいあって。全部書いてたらキリがないので、特に思ったことを。日々思うことたくさんあるので、全て宮城で思ったことなのかは確かではないですけど笑 まぁ全ての経験が血肉となってるので。

はい。以下特に思ったことです笑

僕は論理的に考えていいと思うから感覚・感情・直感を重視したいと思う。論理的に考えていいと思うから自分の思考の前提を疑うようにしたいと思う。論理的に考えていいと思うから正しさではなく美学を追求したいと思う。論理的に考えていいと思うから自分に余裕がある時は違う美学を受容したいと思う。

でもそれって本当は全て人間として自然なこと。

僕は所詮この社会のパラダイムの上において考えているにすぎない。気がする。行動も感情も全て思考に基底されている。気がする。ルソーかな。誰かが「社会の中で生きてしまっている以上人は自然には戻れない。」みたいなこと言ってました。

僕は全然自己共感なんて出来てない。自分の内側の探求とか言っちゃうし。そんなのほんとは要らないはず。でも自己共感に興味がある。だからこそ、音楽。というより自己表現されたものに興味があるし、だからこそ資本主義に完全適応した自己表現()になった途端に興味がなくなるし、だからこそ今創りたい空間も自己表現で溢れた空間なのかも。

まぁ何をもって自己共感出来ているのかなんて分かり得ないんだけども。そして人間らしいっちゃ人間らしいんだけども。

あ、気仙沼でとある人と喋ってる時にこんなこと言ってました僕。

「ひとって面白いですよね。…なんか単純なようで、複雑で…。」ってはにかみながら言ってたらしいです笑

まっさらになんて戻り得ないんだから。現実をこじ開けて、どこかにまっさらを感じられる新しい空間を創り出そう。そしてそこから新しい現実を創っていこう。

って思いました。いつまで経ってもパラダイムが変わらないのは嫌だから。全員にとって主観的により良いと思えるものがあるはずだから。

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