おれ流・美術手帖

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B-side / Perspective_7A
4 min readJun 22, 2016

今日は、東京都美術館で開催中の『ポンピドゥー・センター傑作展』に行ってきました。

図録がめっちゃかわいいので買いました。ミュージアムショップには展示会限定のピエール・エルメのサブレも売ってましたよ!

あと、ピカソカレー。

買うわこんなん。

で、今日は久しぶりに1人でぶらぶら見ていろんなことを考えたので、記録代わりに残しときます。

(大学の時に西洋美術史を一般教養で取ったか取らなかったか忘れた)私の知識はほぼ『イメージを読む -美術史入門-』(若桑みどり著/筑摩書房)ぐらいのものなので、ほぼ初心者の感想にすぎないことを最初に申し上げておきます。

現代美術とか現代アートって、今までの美術の歴史上でも類を見ないほどバラエティに富んでいます。絵画・彫刻の他に、写真やインスタレーションや映像、はたまた体験そのものだったり。これには、19世紀初めごろに写真技術が発明され、1900年代初頭にはカラー写真方式もリュミエール兄弟によって発明されたことにより、ほぼ写実としての絵画の意味がなくなったことに関係あると思います。

すると画家はその存在意義として、より個人の印象を絵画に残さざるを得なくなります。彫刻はまた別ですね、立体ですから。でも絵画において画家が個人の心象を画面に残すなら、彫刻家だって個人の心象を立体に残そうと思うんじゃないでしょうか。

芸術家がその心象を作品に投影するならば、それはとてもパーソナルなものになり、いきおい、芸術家≒作品とそれを見る人との間に何か共通の…共通の理解というのか、心理的なシンクロがないと、作品は単なる意味不明のものになってしまう。この辺が、現代アートが難解だとも言われる要因だと私は考えます。

心理的なシンクロというのは、今回のポンピドゥーセンター傑作展でいえば、私は、展示されている作品の作者と同じような文化的・言語的背景がないので、とても難しいものになりますよね。家族ですら分かり合えないのになんでそんな赤の他人が作ったものに共感できるんだって思うじゃないですか。でも、私は確かにこれらの作品を見て何かを感じるんです。

私の生まれ故郷の青森県に十和田市というところがあって、十和田市現代美術館というのがあります。収蔵作品のひとつに私の大好きな『ロケーション(5)』という作品があります。明かりのほとんどないダイナーのボックス席のようなものがしつらえてある空間に入って行って、窓の外の暗闇に並ぶ道路の灯りを眺める作品なのですが、これを初めて体験した時に、物凄い既視感(か、もしくは捏造された記憶)に打たれたんですよ。その時に私は「あっ、この自分の中の何かを引き出してくるのがアートなんだ」って強く思ったんです。

ある作品と向かい合った時に私の中に生まれる何か。アートと対話する。現代アートは私に対話を求めます。

それは作者が見る人に向けたメッセージの正しい解釈じゃなくても良いんです。その人の何かを呼び覚ます、その人に何かを感じさせる。それは共感かもしれないし、美しいという賛美かもしれないし、または嫌悪かもしれない…その非言語的な対話やプロセスまで含めて体験するのが、私の現代アートの楽しみだなと改めて思いました。

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