DO BE ME KU

仏教でいう「大」/「小」は、絶対的/相対的という意味なので、量の比較ではなくレイヤーの違いを意味する。とはいえ、急にそこに至るのは難しい気もするので、敢えて「中」を導入してみる。

それは絶対的/相対的でいうと、「/」の部分にあたる。その境界、あるいはインターフェースそのもの。

としてみたとき、以下のような段階がある、気がする。つまり「BEの肩書き」にはさらに先があるのかもしれない、という可能性。

DO= 小我 = 表層的な分断。役割分担していることを忘れてしまっている状態。執着しない、無くしてもよいもの

BE = 小さな中我 = 表層的な分断のあくまで表層的な統合。自分内役割分担の自覚。DOほどは執着しなくていいものの、ライフステージの変化によっては手放してもいいもの

ME = 大きな中我 = 表層的な統合の深層的な統合。世界内役割分担の自覚。BEほどは執着しなくていいものの、スピリチュアルな経験などによっては手放してもいいもの

KU = 大我 = 絶対的な統合。宇宙内役割分担の自覚。一にして多、多にして一

このDO〜KUは幅であり、いちどKUに至ったとしても、DOに戻ってしまうことは往々にしてある。

MEは、岡倉天心でいえば「自分の場所を失わずして、他人にゆずる」ということ。KUは、アジャシャンティでいえば、「あなたの世界の終わり」とともにあたらしい世界が目の前に立ち上がる、ということ。

KUの場所に立てば、「あ、いまDOモードだな」と「あ、いまKUモードだな」と自在に観ることができる。敢えてざっくりいえば、「悟っている」とはきっとそんな感じなのだろうか(なんて)。

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