パーソナライズは正義なのか

最近のホットワードの一つとして、「パーソナライズ」が挙げられる。

テクノロジーが発展する中で、データを吸収する仕組みが構築され、あらゆるサービスがパーソナライズ化されつつある。その波は、教育業界も例外ではない。

Altschoolをご存じだろうか。詳しくは以下の記事に書いている。

https://medium.com/ignition-japan/%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%9C%80%E6%96%B0%E6%B3%A8%E7%9B%AE%E6%A0%AA-altschool-dfca2e24735a

Googleのパーソナライズの責任者をやっていた社員が、Googleを辞め、シリコンバレーに創設した学校である。

この学校の教育思想の軸が「パーソナライズ」された学びだ。

学力を効率的に向上させる目的でいったら、パーソナライズは強力な手段である。今までであったらクラスの中で中間レベルの子に合わせていたものを、パーソナライズされた学びは個々に最適化したものを提供できるのだ。

しかし、パーソナライズは本当に正義なのだろうか?

パーソナライズは、レールに沿って、最短距離で勉強するということだとしたら、果たしてそれは可能性を本当に最大化しているのか。

人生を変えるのは偶然の出会いだったりする。自分の好奇心が傾くものを見つけるのも、勉強の脇道にそれた時かもしれない。

パーソナライズはその可能性をなくさないか?

近未来のテクノロジーには、そういった部分を含めた設計思想が大切になってくるであろう。

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