人類は超個体に進化するか(「キュー」書評)

上田岳弘「キュー」書評(文學界 2019年9月号掲載)

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暦本純一

この原稿を書いているのは2019年の7月21日。アポロ11号が人類初の月着陸を達成した1969年7月21日からちょうど50年後にあたる。ウェブ上には50周年を記念するサイトが開設されていて、アポロ11号の司令船コロンビア号や着陸船イーグル号の活動や、地上のヒューストン有人宇宙センターとの交信を、正確に50年だけさかのぼって再現している。いわば50年前からの実況中継。サイトを開いて交信音を流しっぱなしにしていると、2019年の現在に穴があいて1969年の7月に直結しているような気がしてくる。現在と50年前とで、時間が同時並行で流れているようにも感じられる。

上田岳弘の芥川賞受賞のつぎにあたる長編「キュー」にも、時空に穴があいているのかと思われる人物や設定が登場する。700年後の未来でCold Sleepから目覚めた人物 Genius lul-lul 、前世の強烈な記憶を持ち「私の中には第二次世界大戦が入っているの」と主張する女子高生渡辺恭子、50年間寝たきり状態を続けた後に覚醒する立花茂樹。小説自体は、立花茂樹の孫、企業の診療内科医を務める立花徹を一応の主人公として始まるが、それが物語のほんの一部分であることに読者はすぐ気づく。ほとんど毎ページのように描写の場面や時代が跳躍していく展開にふりおとされないようについていくうちに、この世界では等国(レヴェラーズ)と錐国(ギムレッツ)という2つの勢力が対立していること、人類は≪一般シンギュラリティ≫というエポック、≪寿命の廃止≫や≪性別の廃止≫などのパーミッションポイントを経て、最終的には個が廃止され個々の人間は消滅し≪肉の海≫となっていく≪予定された未来≫に到達すること、などの構造がおぼろげながらわかってくる。時空の穴は過去にも未来にも広がっている。祖父の立花茂樹は、世界最終戦争を構想する石原莞爾と親交があったことがあきらかになってくるし、Genius lul-lulが覚醒する700年後の世界には生身の人間は存在せず、Rejected Peopleと呼ばれる人造人間のみが生息している…

本作品のテーマはこのように人類全体の行く末を俯瞰する極めてスケールの大きいものだが、個々の描写はミクロレベルで私達の日常にも接続してくる。登場人物達はiPhoneやiPadを使っているし、Nintendo Switchも登場する。シンギュラリティも、AIに関する記事で頻繁に目にするという意味ではむしろ「親しみのある」用語かもしれない。等国(レヴェラーズ)と錐国(ギムレッツ)の勢力争いという構図からは、スマートフォンの有名なオンラインゲームIngressで拮抗する二陣営、エンライテンドとレジスタンスを思わず連想してしまった。上田作品のアイコンである「塔」も前作のニムロッドも登場する。巨大な伽藍の構造物に近づいていってよくみると、意外に身近なアイテムが隠されているような感覚を抱く。

評者は本作品で示されている多くの概念のなかで、人類の進化形態としての≪肉の海≫に特に興味をひかれている。昨年に上田氏と対談をした際にも、開口一番「いま、肉の海という概念で小説を書いているんですよ」と言われて「にくのうみ??」と聞き返した記憶がある。肉の海はスープのようでもあり、生命は有機体が濃縮された原始スープから発生したという生化学者オパーリンの説を彷彿させる。スタニスワフ・レムの小説「ソラリス」では、人間型とは全く異なった地球外生命の形態として、惑星の海全体がひとつの知性となっている世界が描かれている。人類の行末としての≪肉の海≫、その前提となる≪個の消滅≫はあり得るのだろうかという設問は興味深い。

肉の海は生物における「超個体(スーパーオーガニズム)」とも関連する。超個体とは、蟻や蜂のように集団そのものがより高い能力を持つひとつの生命体のように振る舞う形態を意味する。個々の蟻の能力は限られていても、集団全体としては巨大な蟻塚を構築するなど驚くべき能力を発揮する。その際の一匹一匹の蟻は、我々の身体でいう細胞のレベルに相当するのではという意味で個が縮退しているともいえる。

では人類は超個体へと進化(あるいは進展)するのだろうか。もしかするとそれはすでにはじまっているかもしれない。インターネット上の情報を集約するクラウドソーシングはすでに大規模に利用されている。ネット上の電子メールなどの文章は、個々の文章が直接利用されることはないが、統計的には解析され集合知として蓄積されている。これらの集積された巨大情報はディープラーニングなどの機械学習の性能を上げる原動力となっている。ただちに人類を置換するものではないが、人類の上位のレイヤーとして、個が消滅した「知の海」は確実にその範囲を広げている。ニューラルネットで学習させた情報を他のニューラルネットに転送することを「転移学習」と呼ぶが、現状起こりつつあるのは人類の「肉の知」を、ネットワーク上の「機械の知」に転移学習させている過程といえるだろう。

一方≪個の消滅≫はどうか。SNS上では、皆が好きなことを発言できるように見えて、実は炎上や同調圧力により個性が摩滅して次第に同じような発言をするようになるという観測がある。オンラインゲームの設計者から、あるアイテムを置いたときの人間の反応は統計的に推測できるので、個々の人間というよりもなにかの流体を扱っているような気がすると言われたことがある。

というようなことを書いていたら、今度はイーロン・マスク率いるブレインマシンインタフェースのスタートアップ企業Neuralinkからのプレスリリースが伝わってきた。従来の1,000倍規模の数の電極と集積回路を脳内に敷設し、スマートフォンと無線接続する技術を確立するとのこと。それを使って脳と脳、脳とネットワークを直結していったらどうなるだろう。≪個の消滅≫や≪肉の海≫の時代は、空想にとどまらず予想よりも遥かにはやく到来してしまうかもしれない。

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Jun Rekimoto : 暦本純一
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人間とテクノロジーの未来を探求しています。Human Augmentation, Human-AI Integration, Prof.@ University of Tokyo, Sony CSL Fellow & SoyCSLKyoto Director, Ph.D. http://t.co/ZG8wEKTvkK