卵から育てた鶏を絞めた話

たふみ
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6 min readJan 18, 2020
ニワトリの写真
元気なニワトリ (生後3ヶ月くらい)

その日は曇だった。

少し鬱々とした気分は、天気のせいなんかじゃないことは僕が一番知っているはずなのに、その一時的な感情は否決された。

世の中には2元的な人間の活動の名目的尺度が存在している。選択できる余地があるときに、いわゆる「生物」として区分できる命を、奪うことをするか、しないか。それは丁か半か、間は存在しない。

僕はその日、育てたニワトリの命を、自分の手で終わらせなければならなかったからだ。

人生は可能性に擬態した様々な体験で溢れている。 でも、教育の力で、言説こそが強く、暴力はならないと洗脳される。事実、現代的な人間の生き方には大鉈を振り回して凱旋することは似合わない、と感じる自分がいる。

小学校の道徳の教科書も言っていた。動物の命は尊いもので、大切にしなければならないと。きっと先生用の答えの載った教科書には、欄外に8ptくらいで「命の大切さを知ることが評価基準です」とか書いてあるのだろう。

僕は大人が望むように生きてきたし、社会に背いて生きようとは思えない。人間でない動物を大切にしなければいけないのは、命を大切にって、道徳の教科書に書いてあったからだ。でもそれでよかった。

だから、目の前で起こっている矛盾に説明がつかなかった。確かに僕は、1分と30秒前まで、目の前の純白の動く生き物を大切に育てていた。死なないように、水を変えて、餌をやり、世話してきた。大人の言うように、命を大切に扱ってきた。命がなんだかも知らないのに、自分の中の狭い概念領域を信じて、不確かな安寧の中で諦めていた。

その対象物の命を、自分の手を持って奪うというのだ。時間軸的要因を除けば、ここまでの矛盾があるだろうか。

この強い刺激を前にした感覚は、不思議な生き物だ。何かを感じ取って、その絶対来る未来は、別の予感を連れてくる。

おじいちゃんの前の夜は、おじいちゃんがくれた枕元のドラえもんの時計の目が、鬼のようで、どうしようもなく怖くて、寝ていた母に泣きついた。翌朝誰かの声で目をさますと、今度は母が泣いていた。

あるときには、自分は感情を自由に操れるになる予感がした。その自由への開放は、同時に人間性の喪失を意味する。

人間の感覚はどんどん衰える。否、それは衰えではない。強すぎる刺激と共生していく人間の脆弱さであり、武器だ。それは発達するのだ。

だから、この黄色い足を持たれて逆さまにされてバタバタする妙に滑稽な姿をした生き物は、僕に、今後は同じことをしても、何も感じなくなることを予感させた。

もう1人が棒を持つ。ヒュッと自分の前を通り過ぎ、サッカードでは説明できない1秒が流れて、それは目を閉じた。

彼がその生物の首であろうところに、正確に刃を当てる。その赤い、ドロっとした液体らしきものは、どんどん落ちていく。時折、その余生のエネルギーを使い切らないとならないことを思い出したかのように、羽が羽ばたく。

結局、あっけなく、文字通り首の皮一枚でつながったその生物は、あたたかさを確かに保ったまま、動かなくなった。

ニワトリというのは、70度のお湯につけると毛を抜きやすくなるらしい。

水洗いされて失われた体温を、70度のお湯で取り戻したかのようなその生き物は、驚くほど簡単に毛が抜けた。鳥の羽根というのは皆同じような構造をしているようで、黒く染めたらカラスの羽と言われてもわからない。今は赤く染まっているけれども。

ここで興味深い体験を僕はすることになる。生き物と食べ物の境目を見ることになるのだ。

この作業をするまでは、僕は段々とそれが食物として受け入れられるようになる、とても緩徐な感情変化だと思っていた。でも実際は、それはとても離散的で、ある瞬間に訪れる、お告げのようなものだと知った。ある羽を抜いた瞬間に、僕の中では生き物は食べ物になった。

現代は本当によく命が抽象化されてるため、スーパーに行けば抽象化された肉や魚がいくらでも手に入る。それを僕らは抽象化された価値、お金を持って、誰のものでもなかったはずの命を食らう。

昔の人が信託や探湯を信じていたのも、あの感覚を知ってからは、なんとなく理解できるような気がした。現代は分業化と概括化によってあらゆるものがgradualに表現できるため(スーパーでもお肉100g、とかで買えてしまうでしょう?)、この感覚が失われつつあり、だからこそ二元的にものを考えすぎてしまう人がいたりするのかもしれない。

鍋の底に溜まった赤いものを処理するのは少し時間がかかった。あまり大きくない個体だったとはいえ、血液の量はそれなりにあり、5mmくらいの層を形成していた。水を入れると、確かな厚みと重みを持ってして、優雅に泳ぐのである。

この感覚だけは、あとにも先にも、きっと一生慣れないなと予感した。

炭火の準備している間、僕は自分の感覚に気がついた。そしてそれを否定したかった。でも僕は、確実にお腹が空いていた。

持っていたチョコを少しだけ食べることにした。その甘味は確かなドロッとした液体に変化して、舌に触る。無機的に、反射的に、美味しいと感じてしまったことが、僕は悔しくてたまらなかった。

そうしてできた鶏肉は、本当に新鮮で、一生で1番おいしい肉だった。

炭火でじっくり焼いて、油が滴る。ほのかな赤みを持った黒い炭に触れて、静かに、でも確かにジュッと言う音で存在を示してくる。人間はきっと文化的に、これが美味しい音だと知っている。

忘れられたがってる記憶と、忘れたくない意識が、あの抗っていた翼のように、すこしだけぶつかり合っていた。おもしろいほどに、血生臭さは感じなかった。

帰り道、少しだけ暗いけど、人も車もそれなりにいて、それなりな生活が営まれている、その道を僕は孤独に歩いた。それが無性に瞬間との設置点を持ち、僕はあの紅茶花伝のミルクティーを買ってみた。人工的な温かさと甘み、そのあぐねる感情に無関心のような形状と重みは、確かな日常を思い出させてくれた。

おわり

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