能力はダウンロードできるか?

Will abilities be downloadable?

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情報処理学会誌2020.5 特集「2050年の情報処理」掲載原稿です。
暦本純一 東京大学・ソニーコンピュータサイエンス研究所

Neo: Can you fly that thing? (あれを操縦できる?)
Trinity: Not yet. (まだ.)

映画The Matrixでの印象的なシーンである。Neoに聞かれた時点ではTrinityはヘリコプターの操縦方法を知らないが、次の瞬間その能力を脳にダウンロードする。筆者は、この例をひいて「将来の”アプリ”は能力のダウンロードになるだろう」と、ヒューマンインタフェースの国際学会ACM UIST 2019の未来ビジョンセッション(UIST Visions)で述べた[1]。

人間の能力を、まるでスマートフォンのアプリケーションをダウンロードするように自由に拡張できるようになったらどうなるか。たとえば外国語を解する能力、運動能力、楽器を演奏する能力、芸術を作る能力、何かを理解したり研究する能力。あるいは超音波や紫外線を感じる能力や絶対座標で自分の位置を感じる能力などがアプリ化して自由に流通する世界。

現状、それに最も近いのは聴覚能力のアプリ化だろう。2019年に市販されているノイズキャンセルイヤホンの最先端のもの、たとえばAppleのAirPods Pro では、外界の音をマイク入力しデジタル処理をして耳に到達させる遅延時間が非常に短くなっていて実音とほとんど区別ができない。われわれは、何かを喋ってそれを自分の耳で聞く際に一定時間以上の遅延があると、聴覚遅延フィードバック(delayed auditory feedback, DAF) 呼ばれる聴覚を阻害する効果が生じて、発話を乱されてしまう。しかし、この遅延が充分に小さければその障害は発生せず、自分が喋ってることを骨伝導経由で聞くのと同等となる。

つまり充分に小さい遅延時間でのフィードバックは自己と同一化される。外部の音響を微小遅延時間で処理できるイヤフォンは、人間の聴覚をリプログラミングできる可能性を持っている。このイヤホンを用いて、単にノイズキャンセルだけではなく、言語を翻訳したり、特定の方向の音だけを増強したり、特定の人物の声だけを消したり、逆に特定の人物の声だけを残したり、あるいは集中するために適したノイズを生成したりするなど、さまざまな「聴覚アプリ」が出現し、必要に応じてそれらをダウンロードして利用するようになるだろう。職種別のアプリも登場する。整備士が機器の状態を音で聞き分ける聴覚や、演奏家が楽器の微細な響きの癖や、音楽ホールでの音の伝搬状況を感じ取れる(おそらくは楽器やホールごとにカスタマイズされた)能力もアプリ化されるようになる。一定の年齢までにLとRを聞き分ける訓練をしないと、それを識別する聴覚能力は発生しないが、聴覚アプリで補正できる。さらには超音波のみで会話するアプリなども登場するだろう。

次に現実的なのは人間の遅延を補正するアプリかもしれない。人間は外部刺激を認知してからそれに反応するまでに一定の遅延時間を要するが、それよりもはるかに早く反応できるセンサーや処理システムは既に多くある。さらに、人間の行動や外部環境の変化を予測する機械学習を併用すれば、センシング遅延をゼロからマイナスにすることも可能である。このような能力を持つスポーツアプリをダウンロードして、擬似的な予知能力を得ることができる。相手選手の次の行動が予測して見えたり、ボールの方向をあらかじめ感じ取れる能力が付与されることになる。

能力アプリと人間とのインタフェースは、イヤフォンのような非侵襲なものから、ウェアラブルエレクトロニクスとして身体と一体化するもの、インプラントされるものまでさまざまな可能性が試みられるだろう。2050年においてもBMI(brain-machine interface)で人間の思考が自由に読み書きできるかは不明だが、網膜や内耳、筋肉、味覚、触覚、あるいは腸内(細菌)などに介入する技術は充分達成可能だろう。ダウンロードにとどまらず能力のアップロードや、人間単体ではなく機械と人間との融合(humanly-extended machines)に関わるアプリも開発されるだろう。

以上のような技術は、人間拡張 (human augmentation) に含まれるが、これがアプリとして流通できることが重要だと筆者は考える。スマートフォンは、当初は電話や Webブラウジングなどの固定した機能を提供するものだったが、拡張機能をアプリとして流通させることで飛躍的にその可能性が拡大した。スマホ内蔵の傾斜センサーを使った、ビールジョッキを模したような冗談アプリまでも生まれたが、設計者が当初予期していた範囲をはるかに凌駕したアプリが多く開発され、情報産業の発展に大きく寄与した。

また、これらのアプリは、ある程度の技能を習得すれば誰にでも開発できることも重要である。人間の能力がアプリ化した場合でも、拡張機能を自由に開発し、流通販売し、あるいはオープンソース化するようになる([2]ではこれをオープンアビリティと呼んでいる)。将来の初等プログラミング教育では、画面中のキャラクターや実世界のロボットの挙動をプログラムするだけではなく、学習者自身の能力をリプログラミングすることが含まれるだろう。

その一方で、能力がダウンロードできるようになると能力そのものの価値や希少性が失われてしまうかもしれない。スマホに新しいアプリを導入しても自慢にはならない。特別に高価なアプリケーションでもない限り、誰でも入手できるものだから。同様に、能力がダウンロードできてしまう時代には、努力して新しい能力を得ることへのモチベーションが失われてしまうかもしれない。しかし、得られた能力を前提としてさらに高いレベルでの競争が起きることも期待できる。人工知能が自律的に研究を行ったり論文を生成する時代になると、それ自体はありふれた事象になってしまうので新規性が認められなくなる(計算すれば分かることなので「計算自明(computationally trivial)」と呼ばれるようになる)。しかし、その計算自明を前提として、さらに高いレベルでの競争が発生し、より高いレベルでの科学的発見がもたらされるだろう。芸術やデザインなどの分野でも同様になるだろう。

ところで、スマートフォンのアプリと通信機能とは密接に連携している、というよりも通信機能を利用したアプリが主流である。SNSやオークションなどのアプリが典型的である。人間の能力がアプリ化したときも、個体としての機能拡張にとどまらず通信機能を利用したものが当然に発展するだろう。しかし、それはどのようなものだろうか?以心伝心やテレパシーが可能となる世界?あるいは脳と脳がハウリングする超炎上?

参考文献

  1. Jun Rekimoto, “Homo Cyberneticus: The Era of Human-AI Integration”, ACM UIST visions 2019, arXiv 1911.02637, 2019.

2. 暦本純一 “IoTからIoAへ、人類を拡張するネットワーク”, 日経エレクトロニクス (1164), pp.89–101, 2016–02, 2016.

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Jun Rekimoto : 暦本純一
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人間とテクノロジーの未来を探求しています。Human Augmentation, Human-AI Integration, Prof.@ University of Tokyo, Sony CSL Fellow & SoyCSLKyoto Director, Ph.D. http://t.co/ZG8wEKTvkK