HMDの呪縛
先週末(2017年11月11日)に、VRコンソーシアムが主催するVRCカンファレンス2017に呼ばれて基調講演をさせていただいた。VRCのカンファレンスとしては最後で、VR元年から一区切りつき、いったん仕切り直しするとのことだった。
会議では複数のパネルセッションがあり、意見として「VRがもっと来ると思ったが」という少し期待過剰だったものが揺れ戻しているみたいな発言があった。
性能もあがった、価格もこなれてきた、コンテンツ作成環境も整ってきた、けれどブレイクするのにもう少し何か必用な気がする。
という意見だ。価格からするとPSVRでも一式揃えるのにはかなりな出費となるので、現状でもまだコンシューマー製品としてはまだ高い。もう少し安くなれば、ということはあるかもしれない。
でもそれだけなのだろうか。根本的な問題が残されている。
HMDの装着そのものが快感ではないということだ。
マルチタッチ発明者の一人、という立場から申し上げるので少し信頼してほしいのだが、iPhoneの成功のインタラクションとしての原動力はマルチタッチではない。加速度スクロールである。スクロールの加速感が気持ちよいことでスマートフォンにみなが飛びついた。そして意味もなく上下にスクロールしたりした。マウスでGUIの時代には、まさかスクロール操作が快感につながるとはだれも思っていなかった。マルチタッチもたしかに便利だが、とくに最初のiPhoneの画面サイズでは加速度スクロールのような強力な操作快感は生み出せていなかった。
便利より気持ちよさが勝つ。
他の快感としてはセグウェイがある(私自身はセグウェイではなくninebotしか乗ったことがないのでその体験で代行できるとして)。セグウェイに慣れて身体と一体化してくると、だんだん降りたくなくなる。二足歩行が無駄だったと気づく瞬間がある。意味もなく前後に動いたりその場で回転したりする。移動する利便性を超えて身体拡張感そのものが快感となる。
そういうものと比較したとき、HMDの閉塞感や装着の大変さを凌駕する操作快感をつくりだすのは大変そうに見える。少しぐらい軽くしたではすまない。
一方、ARは手術のサポートだったり家具を買う前に部屋に家具を重畳してみたり、とだんだん目的が明確化してきた。たとえばIKEAの家具アプリであればHMDを使う必用もなく、ビデオシースルーでタブレットのカメラ越しに移した部屋の映像で十分である。
一般に、応用先が明確になると要求する性能も明確になる。つまり不要なオーバースペックを追い求めなくなる。逆に目的が決まっていないとむやみに高性能を追い求める。
HMDの目的はなんだろうか。
Ivan Sutherlandが「ダモクレスの剣」という世界最初のHMDを試作したとき、目的はHMDではなかった。Sutherlandは「究極のディスプレイ (the Ultimate Display)」という論文(というかエッセイ)を書いている。
この論文で言っている究極のディスプレイは HMDではない。「部屋に椅子を表示したならばその椅子に座れるべき」とか「表示した銃弾に当たったら人が死ぬべき」などと恐ろしいことが書いてある。つまり映像だけではなく現実の物質が変形することまでを網羅している。
これは現在ではプログラマブルマターと呼ばれる研究領域だが、Sutherlandが想定している性能には到底達していない。
そんなプログラマブルマターの構想を仮に実現するとして考案された構成が元祖HMDのダモクレスの剣である。つまりHMDはSutherlandにとっては「暫定版the Ultimate display」だったのだ。ちょうどAltoがAlan Kayにとって暫定版Dynabookだったように。
そこまでの性能を求めるとすると、現状の最高性能のHMDでもまったく不十分であるし、触覚フィードバックをフル装備とかさらに重装備な方向にいってしまいそうで快感原則からも遠ざかってしまう。一方、VTuberを観たいぐらいであれば通常のスクリーンでも間に合う。HMDの装着負担と得られる快感のバランスの追求が必要なのではないか。