Takeshi Inoue
blogescala
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5 min readMay 17, 2019

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もちろん、合衆国政府の政治経済的な思惑もあって、昨今のラテン音楽の話題はもっぱらキューバのミュージシャンがどこそこでコンサートを開くといった情報で事欠かない。つねに亡命者の受け入れ先となってきたマイアミのキューバ系市民との軋轢もそれにつれて聞こえてくる頻度が高くなっている。どうもマイアミのキューバ系市民は最近旗色が悪いらしい。

マイアミにも小さいながらニューヨークやプエルトリコのスタイルを踏襲したサルサの録音に従事する一群のミュージシャンがいて、それなりにスタティックなコミュニティを形成してきていた。キューバ音楽の「流出」は当然このコミュニティにも影響を与えている。キューバのミュージシャンとともに、そのコインの裏側ともいえるこの最もアメリカ的な地域を追っておく必要があるだろう。

現在はルイス・ダモンやホルヘ・ルイスを世に出したプロデューサーとして知られるオスバルド・ピチャコがキューバを出国してパナマ経由で陸路メキシコ国境から合衆国に入国したのは88年。メキシコの独立記念日のお祭り騒ぎに紛れて入国した。その頃メディアをにぎわしていたのは、メキシコや中米からリオ・グランデを渡るウェットバックと呼ばれる不法入国者で、川を渡るときに背中が濡れることからそう呼ばれたのだった。マイアミのみならず、ニューヨークをも射程に入れて活躍する売り出し中のプロデューサーがそうした不法入国者の集団に混じっていた姿を想像すると、そのあまりに典型的すぎるサクセス・ストーリーにもかかわらず、おのずと感嘆してしまう。

マイアミ到着後のピチャコは元ロス・バンバンの歌手イスラエル・カントールのオーケストラでベースを演奏している。92年、マイルス・ペーニャが亡命してきたのちは彼のオーケストラのディレクターをつとめてニューヨークを含めた合衆国各地を旅してまわったという。レコーディング・プロデューサーとしては89年のジャン・ポール・コレーがデビューであるが、認められたのは96年のルイス・ダモンのデビューアルバムがヒットしたことによる。以降は年間4、5枚の量産体勢に入り、昨年は念願であったマイルス・ペーニャとの共同制作も行なっている。

マイアミのサルサをざっと振り返ると、そこにも歴史らしきものが紡ぎだせることがわかる。ロベルト・トーレスやハンセル&ラウルを動機づけているのは望郷と、別なところに「約束の地」をつくろうという意志であった。彼らが演奏するソンやチャランガはキューバ本国とはまた違った形で「保存」されている。ウィリー・チリーノはそこから一歩踏み出して、カリブの坩堝であるマイアミ人として雑多な文化のなかに生きる自分を積極的に形成しようとしている。ソンを基調としながらも開放的なマイアミの空気のように様々なリズムと取り込もうという姿勢は明らかだ。

いわゆるサルサ・ドゥーラと呼ばれる「今」の音楽を習得して合衆国に渡ってきたオスバルド・ピチャコは、アレンジとレコーディングに大幅にコンピュータを使って、キューバの音楽をサルサに取り入れる試みをつづけている。それはニューヨークのセルヒオ・ジョージやプエルトリコのラモン・サンチェスと連動してマイアミにひとつの極をつくっている。現実にセルヒオとピチャコは友人関係あり、ラモン・サンチェスとオスバルド・ピチャコのコンピュータはオンラインでつながれて共同制作がおこなわれている。マイアミにいることが不利なことでもなければ、そこに積極的にアイディンティティの根拠を求めている風でもない。

ある時期まで、サルサを特徴づけてきた土地への希求が徐々に失われてきて、ここに至って、完全にそこを離れて飛翔してしまったような印象をピチャコのディスクを何枚もチェックしていると感じてくる。それが、ホルヘ・ルイスのコンピュータライズされたメレンゲのような速度を持ったサルサを聴くとき感じる落ち着かない不安感の原因でもある。しかしそれは、完全に安全に制御されたジェットコースターが持つものと同じであり、やがてさらなる刺激をひとは求めるようになる。ピチャコの登場は、インターネットが世界を覆い始めたのとパラレルであり、まさに時代が生んだプロデューサーだといえる。

サルサとは「わたし」あるいは「わたしたち」とは誰かを問うことでもあった。ニューヨークでひとり暮らして孤独に苛まれたとき「わたし」は誰かと問う。わたしはプエルトリカンだ。そう答えたのがサルサだった。ウィリー・チリーノも、現在とくに状況が変化し、緊迫感が増したマイアミにいて、そう問われている。だから彼は答えている、「わたしはまだ、キューバ人だ」。その瞬間に彼はサルサを発見している。「オズバルド・ピチャコはトロピカル製品のジャパニーズ・ヴァージョンである。効率よく、より精神的」。これはピチャコをマネージメントするプロダクションのキャッチフレーズである。わたしはまだピチャコという人物を日本人がそう言われてきたように、「顔」が見えない捕らえどころのなさでつかみきれないままでいる。そしてまた、サルサを聴くとは、以降このシニカルさを生きることだと感じてもいる。

『ラティーナ』1999年6月号

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Takeshi Inoue
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障害者自立生活センター勤務。障害者の世界と健常者の世界、スペイン語の世界と日本語の世界の仲介者。現在コスタリカの自立生活センターで働いています。 Un japonés que trabaja en el centro de vida independiente MORPHO en Costa Rica.