Takeshi Inoue
blogescala
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16 min readMay 19, 2019

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ハイロ・バレーラの故郷キブドーの夕暮れ

1990年、グルーポ・ニーチェは初めてのメキシコ公演を行った。ラテンアメリカにとってメキシコは独特の位置にある。それは、地理的にというよりもベネズエラとともにテレビなどのマスメディアの中心であるのでその影響力はひじょうには大きい。ニューヨーク、プエルトリコ、キューバというサルサを形成する最も基本的なトライアングル(つまりクラーベ文化圏)の外に出るためには、必然的にそうしたメキシコを中心としたプロモーションを行わなければならない。そして逆に、そこを制すればラテンアメリカを制することができるとも言える。ニーチェにとってもそれは同じだっただろう。彼らのこの公演は86年に行ったニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでの公演、89年のフランス、イギリス、ドイツ、スイス、スペインを回ったヨーロッパ公演を終えた後に行われたもので、まさに満を持して行われている。

公演は当初、4公演を予定していたが、さらに16にまで拡大された。わたしはその年メキシコシティにいて、そこの大学の片隅でスペイン語を学んでいた。ラジオからは、ディレクターのハイロ・バレーラの歌う”Entrega”、プエルトリコから参加していたティト・ゴメスの”Miserable”が日に何度も繰り返して流れていた。当時のシーンはまだサルサ・ロマンティカが多く幅を利かせている。エディ・サンティアゴ、デビッド・パボンにラロ・ロドリゲス、そこにルイス・エンリケ、オルケスタ・デ・ラ・ルスが加わってくるのがおおよそのヘビーローテーションだっただろうか。もちろんこの年を中心として前後数年にわたるコロンビアサルサの黄金時代はメキシコにもやってきていて、ニーチェのほかに、グルーポ・カネオ、グルーポ・クラセ、ロス・ティターネスなどもよくかかっている。

7月になると、街にいっせいにグルーポ・ニーチェの公演を告げるポスターが張りだされ、そして、それは8月になると同時に始まった。わたしは、その夜、“サロン・ロスアンヘレス”というクラブ、と言えば聞こえはいいが、そこはステージとラム酒を振る舞うささやかなカウンターの他にはまるで体育館のようになにもない空間で、後方にあるトイレからはつねに異臭が漂ってきている、そこにグルーポ・ニーチェを見に出かけた。ゲレロというメキシコシティの下町にあるそのクラブの壁には、セリア・クルース在籍当時のソノーラ・マタンセラの写真が一面に繰り広げられている。それは、もちろんかつてその「小屋」のような場所で彼らが演奏していたことの証拠である。夕刻頃から、マタンセラの時代からダンスをたしなんできた老夫婦が当時の曲で踊っている。メレンゲやクンビアを織り交ぜるより若い前座が演奏をつづけてゆくにつれて観客は膨れあがりニーチェが出演する夜半近くにはほとんど踊るスペースもなくなってきている。その年は、イタリアでサッカーのワールドカップが行われた年で、ニーチェのメンバーは練習に使う赤いベストのような衣装を身につけて登場した。リードボーカルはティト・ゴメス。新しく加入したハビエル・バスケスに、適宜ディレクターのハイロ・バレーラもボーカルに加わる。それは、まったく信じられないような演奏で、ショーアップされた舞台が多いサルサのなかで、聴き手に何かを提供するというより、何か過剰に膨れあがったエネルギーをぶつけてきているようだった。それはまるでハードコアなロックのライブ会場に居合わせているような気分だった。

一般的には、87年頃を頂点とする歌謡化したサルサ、サルサ・ロマンティカとともにサルサはその原初のスピリッツを失い「終わっている」とされていた。しかしその夜わたしは、けっしてそんなことはあり得ないことを確信している。会場の多くがはじめてニーチェを体験するにもかかわらず、すでに「ニーチェマニア」と化していた。そしてその大半がその地区の商店や自動車修理の工場などで働いていて、週末には多少身なりも整えて踊りにくる。ニューヨークのなどの名の通ったクラブではすっかり忘れ去られてしまった、サルサがその始まりに持っていたような濃密な空気をそこは保存しており、それは今でもわたし自身のサルサの原風景として記憶されている。

グルーポ・ニーチェは1980年、コロンビアの首都ボゴタで誕生した。創設メンバーは、太平洋岸の平原地帯、チョコーという県出身の若者たちで構成されている。ディレクターは、ニーチェのすべての曲の作曲者であるハイロ・バレーラ・マルティネス、ピアノ、ニコラス・クリスタンチョ、トロンボーンに現在オルケスタ・グァジャカンのディレクターであるアレクシス・ロサーノ、サックスとフルートに、アリ・“テリー”・ガルセス、ボーカルには、ホルヘ・バサンとエクトル・ビベロスが入っている。同じ年、DAROというレーベルから最初のLPである”Al Pasito”を録音する。翌年、サウロ・サンチェスとアルバロ・デル・カスティージョをボーカルにしたシングルがボゴタとカリブ海岸でヒットしたため、バレーラはDAROに新しいLPを録音することを要求したが、会社は乗り気でなかったため、新たにメデジンを本拠とするCODISCOSと契約する。

ニーチェの歴史を語るには、ボーカルの交替を契機としていくつかのエポックに分けるとわかりやすいだろう。デビューアルバムを0期とし、先述のシングルから参加したアルバロ・デル・カスティージョをボーカルの中心にした83年までを、ニーチェの基礎のできた時代、第1期ニーチェと呼ぶことができる。その間、ディレクターのハイロ・バレーラとともにアレンジャーとしてアレクシス・ロサーノがオーケストラの中心的な役割を占めており、彼とともに4枚のアルバムを録音している。そこではまるで、自分自身に自らの出自を覚え込ませるように、自分たちのルーツ、チョコー出身であること、黒人の血を引くことなどを、チョコーのフォルクローレ、クルラオを引用しながら繰り返し歌っている。この時代の最後、83年、通算4枚目のアルバムでは、ルイス・ペリーコ・オルティスのオーケストラからエンリケ・ブレトンやフレディ・サンチェスをゲストに迎えてニューヨークでの録音を果たしている。これを最後にアレクシス・ロサーノは脱退し86年にオルケスタ・グァジャカンをつくることになる。グルーポ・ニーチェはハイロ・バレーラのよりワンマンなオーケストラとなっていく。

84年より、ボーカルはモンチョ・サンタナに変わる。彼が在籍する翌年85年までを、第2期ニーチェと呼ぶことができる。この間、2枚のアルバムをリリースする。初代のピアニスト、ニコラス・クリスタンチョ・“マカビ”がアレンジを担当し、沿岸部の低地体特有のブラックな感覚は薄れ、彼らの活動の中心でより内陸部の盆地である「カリ」のオーケストラであることを強調している。84年の『No hay quinto malo』に含まれた”Cali pachanguero”のヒットがこの時点でニーチェの人気を決定的なものにしている。それだけではなく、90年を頂点に盛りあがっていくカリを中心にしたコロンビア・サルサ黄金の時代の幕開けでもあった。翌年のアルバムは、再びニューヨークで録音され、ディレクターのバレーラ自身がボーカルの一部を担当している。そのコロンビア盤タイトルは、そのもの『Triunfo(勝利)』であった。

第3期ニーチェは、ソノーラ・ポンセーニャで活躍したプエルトリコの歌手ティト・ゴメスをリードボーカルにして86年から90年までつづく。頂点を極めたかと思えば、さらに上をめざすニーチェの加速はもはや誰にも止めることはできなくなっている。そして、彼らを中心にした「コロンビアサルサ黄金の時代」がこの間に重なる。オルケスタ・グァジャカン、ラ・ミスマ・ヘンテ、グルーポ・カネオ、グルーポ・クラセ、ジョー・アロージョ、海外のレーベルがこぞってコロンビアのミュージシャンと契約しようと急いでいる。国内には、彼らをめざして追いかける若く勢いのあるのオーケストラが毎日のように生まれるようになる。さらにこの時期は、ニーチェがより広い世界に出ていこうとする準備的な期間でもある。86年、プエルトリコまでティト・ゴメスを迎えに行くように、彼らは初めてのプエルトリコでのレコーディングを、現在ラ・セレクタのディレクターをつとめているエドガル・ネバレスのプロデュースで行う。翌年87年からは、世界をサルサ・ロマンティカが覆った年である。そのムーブメントはサルサを歌謡化し、ラテン化して口当たりをよくし、それまでサルサを受けつけなかったような地域にまで浸透させていった。ニューヨークのサルサを手本にコロンビアのブラックな感覚をミックスしながら「ニーチェ」の音をつくりあげてきた彼らも、この動きを無視することはできなかった。ディレクターのハイロ・バレーラは金銭的なトラブルから、オーケストラのメンバーのほとんどを解雇した後、ベネズエラからディメンション・ラティーナのセサル・モンヘを呼んだり、国内からは、フルーコのもとで活躍していたモーリス・ヒメネスを参加させたりして主としてトロンボーン奏者をアレンジに起用しながら、この時代の流行であったトロンボーンの真綿のように柔らかいアレンジを使い、シンセサイザーを交えてそれまでのニーチェとは完全に音を変えてニーチェ版サルサ・ロマンティカの試みを始める。この試みは89年の『Sutil y Contundente』で完成し、このアルバムで彼らはSONYと契約して拡大するメディアの一角にその地位を占めることに成功する。

90年代に入ると同時に、第4期ニーチェが始まる。人気絶頂のティト・ゴメスが脱退し、前年から参加しているハビエル・バスケスにロス・アルファ8のチャーリー・カルドナが加わる。冷戦後、急速に多国籍化し変化していく世界のなかでサルサもより「一般的な」音を要求されるようになる。ニーチェもコロンビアらしさを保ちながら、よりポピュラリティを得られるような音に変えていく。まるで教会の聖歌隊から引き抜いてきたかのようなチャーリー・カルドナの声は倍々ゲームで増えていくニーチェの人気をさらに上乗せすることになる。この年代最初のアルバム『Cielo de tambores』には、ニューヨークですでに彼の時代を作りつつあったセルヒオ・ジョージをキーボードとアレンジに迎えている。この年、セルヒオはデ・ラ・ルスをデビューさせ、プエルトリコではクト・ソトがジェリー・リベラのアルバムを準備している。サルサ・ロマンティカがつぎの局面を見せはじめ、ニューヨークから遠く離れたところがサルサの舞台になりつつあった。翌91年リリースの『Llegando al 100%』はさらに象徴的だろう。多国籍化する企業に、あるいは、多国籍化する「部隊」(この年はもちろん湾岸戦争の年だ)に対抗するように、このアルバムにはニューヨーク、プエルトリコ、コロンビアのセッションミュージシャンが集合している。エディ・サンティアゴのディレクターとしてラテンアメリカを制したアンジェロ・トーレスに音楽監督をまかせながら、ニーチェはそのジャケットにあるように、ひとつになった地球を彼らの音楽で祝福している。これ以降のサルサは、グローバル化する世界と歩調を合わせるように、グァテマラのサルサ、メキシコのサルサ、フランス、オランダ、そして日本へと、それまで、「非サルサな場所」とされていた各地へ拡がっていく。そしてまた、矛盾するようだが、それが生まれたところの「匂い」を消しても行くだろう。ほとんどコロンビア国内にとどまることなくツアーに出ているニーチェが「コロンビアを忘れてしまった」とファンから批判されることが出だしたのもこの頃である。彼らは疚しさを解消しようとするかのように、アルバムの最後にしばしば故郷に捧げる歌を挿入している。そしてそれだけではなく、コロンビア国内から彼らを追ってサルサをはじめた若いオーケストラをニーチェのレーベルのもとに積極的にサポートしている。こうしたオーケストラには、ラ・スプレマ・コルテ・オルケスタ、オルケスタ・パライソ、サンドゥンガ・オルケスタ、ポップ・ラテンなスターになったチャーリー・サーが在籍していたアルマ・デル・バリオなどがある。

チャーリー・カルドナがリードボーカルの時代は94年までつづく。その後彼に代わって、ラ・スプレマ・コルテ・オルケスタ出身のウィリー・ガルシアがボーカルに加わる。この95年から現在までを第5期ニチェと名づけることができる。オーケストレーションの中心は、前年から参加しているトランペットのホセ・アギーレである。おそらく、この時期はハイロ・バレーラにとってもグルーポ・ニーチェにとっても、コロンビアという国にとっても最も困難な時期であったと言えるだろう。発端は、95年、バレーラが音楽以外から不正に利益を得ていると訴えられ、逮捕、拘束されることから始まる。(拘留は3年間にも及んだ)。そしてそれは、麻薬絡みの善からぬ噂となって世界中を駆け巡る。コロンビアは、ラテンアメリカ全体が関税のない統一された市場へという方向に向かって行くのに逆行するように、再びゲリラの活動が活発になり、それが、相も変わらぬ政府とマフィアの抗争と複雑に絡み合って国家は年々疲弊していく。ニーチェの人気が衰えることはなかったが、「コロンビア・サルサの時代」は93年頃を境にして急激に収束する。トロピカル・ラテンの主流はキューバの正統的な音に回帰し、コロンビアのような「亜流」はまるで排除されるかのようにシーンの脇に後退していく。 チャーリー・カルドナの限りなく甘く、ロマンティックな歌声に代わって、ウィリー・ガルシアはそうした背景と無意識に同調するように、バレーラの歌詞のどこか思い詰めた内省的なトーンを表現するようになる。例えば、97年の『A prueba de fuego』では、そのタイトルトラックでバレーラ自身の拘置の体験を弁護するように、「私は“問題”なのではなく“解決”の一部なのだ」とウィリーに歌わせている。(拘留中は、コンピュータも置かれた“ほとんど家”のような施設におり音楽活動にはほとんど影響はなかったという)。さらに、98年の『Señales de humo』に含まれた、”No me muero mañana”では、ラボー/コローンを引用しつつ、バブルに浮かれるニューヨークとそこに拠点を置くRMMレコードの主宰者ラルフ・メルカードを虚栄の象徴として揶揄しながら歌っている。このアルバムは、ニーチェの歴史の中で、最もペシミスティックなもので、先の見えない国と自分たちの不透明さがそのまま音楽になっているように感じられる。シニックさが興奮に変わり高まったかと思うと、やがて清廉さを増して濾過されてゆき、最後は祈るように終わっている。 98年にはまた、彼の人生に大きな影響を与えた母を失っている。そうした、彼の個人的な出来事に加えて、急速に規格化していく世界のなかでまるで居場所を失ったかのような「サルサ」というジャンルの動きと呼応してもいるのだろうが、昨年、暮れも押し詰まってリリースされた彼らの新しいアルバムでは、彼らの初期のアルバムからも引用しながら、抽象的な「世界」から手触りのたしかな「私の生きる場所」に戻ろうとしているかのように見える。

「このアルバムは思い出の集まりだ」。カリのスタジオに偶然捕まえたニーチェのディレクターは電話の向こうで話していた。“孤高の芸術家”をイメージするこちらの勝手な思い込みを、まるでビジネスマンのような口調で軽く裏切りながら彼は語っていた。「チョコーで生まれた黒人の末裔であるという我々のアイデンティティを再確認している。だから、チョコーのフォルクローレを使って、リズムも以前に比べてずっとダンサブルになっている」。(タイトル『A golpe de folklore』をそのまま訳せば『フォルクローレを使って』であるが、”golpe”にはパーカッションの“ビート”の意を含ませてある)。

チョコーは、コロンビアの太平洋岸に広がる一帯にあたり、アトラト川がパナマの方角に向かいカリブ海にそそぎ込んでいる。湿地帯のジャングルがつづき、そこをカヌーを使って移動するイメージはこのアルバムに何度も登場する。バレーラはそこの首都キブドーに1949年12月9日に生まれた。父は商店主で、母は作家で詩人でもあった。また、祖父はコロンビアで企業主となった最初の黒人のひとりだったという。彼はそこのローマというバリオで、すでに8歳の頃にグループを結成して演奏しているが、そうした興行の才をその祖父から受け継いだと言われている。(*わたしは2015年に初めてバレーラ生まれ故郷チョコーを訪れている

たしかにこのアルバムには、バレーラが言うようにこうした彼が生まれた場所の風景、そこで蠢くように生きている黒人たちの風物詩が織り込まれている。しかし、そこにはサルサが生まれて「世界」にむかって拡大をはじめ、故郷を離れだしてかえって飢えたようにそれを求める強烈なメランコリーはない。したがって異国にいる過剰な思い込みからそこを理想化して描くこともない。ここには、故郷にいるあたりまえの安心感とそこをより精密に観察する視点がある。サルサ・ロマンティカからの甘さが完全に払拭されていて、それだけに、そこに描かれている事象もよりリアリティを持って感じられる。それはやはり、ここ数年パナマに帰って音楽活動をしているルベン・ブラデスが、かつて「アメリカ」に連帯を呼びかけていたのにたいして、パナマというミクロな文化圏へと世界の地図をを切り替えて、そこから何かを作り直そうとしているのと共通しているように思われる。(ブラデスとバレーラの年齢は一つ違いで、ほぼ同年代である)。リッキー・マーティンからブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブへと「ラテン」が「世界」へ拡大する動きは止むことはないが、そのほとんど気づかれない間にサルサというもうひとつの「ラテン」はまったく別の動きを見せていることに注意しておきたい。グルーポ・ニーチェという影響力のあるオーケストラがそこに加わったことでこの動きは決定的になったようにわたしには見える

『ラティーナ』2000年4月号

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Takeshi Inoue
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障害者自立生活センター勤務。障害者の世界と健常者の世界、スペイン語の世界と日本語の世界の仲介者。現在コスタリカの自立生活センターで働いています。 Un japonés que trabaja en el centro de vida independiente MORPHO en Costa Rica.