Takeshi Inoue
blogescala
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12 min readJun 15, 2019

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それにしても、ドミンゴ・キニョネスのこの求心力はいったいどうしたことだろう。97年の『セ・ネセシータ・ウン・ミラグロ(奇跡求ム)』いらいまるで、時代にのるのではなく、それを自分に引きつけるような強力な磁場をこのプエルトリコのサルサ歌手はつくり出しているようだ。

本業のサルサの分野では、このアルバムから、98年のプエルトリコの伝統的な音楽をアレンジしたクリスマス・アルバム、昨年のエクトル・ラボーを演じたミュージカルのライブ盤、そして今年になってリリースされた「ポエタ・イ・ゲレーロ」とつぎつぎに、きわめてメッセージ色のつよい、聴く人に考えることを迫るようなアルバムを発表している。ドミンゴが主役をつとめるそのミュージカル「誰がエクトル・ラボーを殺したのか?」は、昨年から今年にかけてニューヨークとプエルトリコで上演され好評を得ている。ミュージカルでは他に、「ジーザス・クライスト・スーパースター」のピラトー役、さらにベトナム戦争を舞台にしたプエルトリコ映画「もうひとつの祖国の英雄たち」に出演し映画デビューも果たしている。そして、90年に入って中南米に広がり、プエルトリコのサルサ・ミュージシャンにも浸透しているクリスチャン・ミュージックの流れ。音楽家として責任を持って社会に参加し麻薬やエイズなどの問題に関わっていこうとするクリスチャン=ミュージシャンとしての活動にもさらに積極的である。こうした彼の活動はより若い世代の歌手に対して精神的な主柱となるだけでなく、技術的にもボーカル・トレーナーとしても彼らを指導していて、最近のマイケル・ステュアート、チャーリー・クルース、ロベルト・アベジャネーなどのアルバムジャケットにはつねにドミンゴへの感謝の言葉が添えられている。

そのドミンゴ・キニョネス自身のアルバムには、さらに先行する世代である、ウィリー・コロンやルベン・ブラデスへの敬意を表す彼の言葉が掲げられていて、そこにドミンゴのサルサというジャンルのなかでの微妙な位置づけをみることもできるだろう。90年代に入って彼がプエルトリコに移住する前のニューヨーク時代の話になる。

ニュージャージー生まれの彼が、83年にデビューし、オルケスタ・ナティーボやコンフント・クラシコでの下積みを終えて、当時最もヒップだったルイス・ペリーコ・オルティス・オーケストラのリードボーカルになったときには、ペリーコ自身の音楽も、様々な変遷を経てきたニューヨークのラテンの王道としてのサルサも一定の役割を果たし終えようとしている。スタイルは変わらざるを得ない時期にさしかかっていて、ウィリー・コロンもルベン・ブラデスもそしてペリーコも、シーンを支えてきたアーティストたちは、それぞれシンセサイザーやドラムスを加えたり、コンピューター・プログラミングを取り入れたりして意欲的にサルサを「進化」させようと試みている。ルイス・ペリーコ・オルティスのなかでもとくにそうした「実験的」な色彩が強い「イン・トラディション」(86年)と「ブレーキング・ザ・ルールス」(87年)は、全編コンピューターで裏打ちされていてクラーベというラテン的な価値観とヒップホップな感覚を融和させる道を探ろうとする、いかにもニューヨーク的なサルサで、現在の観点からみてもかなり先端的な試みをしている。それまでプエルトリコの伝統的な社会システムが崩壊していく様子をまるで目の前に再現するようにノスタルジックに描いた傑作を何枚もリリースしてきたペリーコがイマジネーションのプエルトリコではなく現実に生きている場所ニューヨークにあわせて音楽を変えて行こうする意志がよく感じられる。この2枚のアルバムでともにリード・ヴォーカルで歌っているのがドミンゴ・キニョネスだった。

「ラテンの美学」という言葉であらわされ香しい匂いさえ漂ってきそうな伝統的な共同体が崩れ去ったあとに現れたドミンゴ・キニョネスは「新世代のサルセーロ」と称されることが多いが、彼のキャリアにはしかしどこか、むしろ〝遅れてきたサルセーロ“といった方がふさわしい、そんな印象がある。

ペリーコのオーケストラを抜けたあと、ドミンゴはソロ歌手としてRMMレコードと契約するのだが、87年のRMMの創設は実質、サルサと同義語だったファニアの終わりを意味している。よりビジネスライクなRMMへと支配的なレーベルが移ることも時代の移り変わりをあらわしているだろう。この年爆発的にラテンアメリカを席巻するサルサ・ロマンティカは、サルサ=ニューヨーク=ファニアという図式を完全に壊してしまう。サルサという音楽のまえにはラテンアメリカの広大な市場があらわれ、サルサは誰にでも理解でき受け入れられるメロディ重視の歌謡曲風の音楽に容貌を変えてていく。ドミンゴ・キニョネスの90年代ももちろんこうしたシーンに歩調をあわせている。90年、チャーリー・ドナートのプロデュースで初めてソロ・アルバムをリリースし、それ以降はプロデューサー、アレンジャーとしてロマンティカのムーブメントをつくりあげ引っ張ってきたクト・ソトと組んでアルバムをつくっている。わたしは、94年の夏にクトと知り合った。わたしが彼についての文章を書いたのがきっかけで、彼はそれを喜んでくれていた。この頃プエルトリコの彼の家に電話を入れると、朝の眠たげで、トロンボーン奏者特有の嗄れた声でクトは、「昨日誰と会ってたと思う?」悪戯っぽい口調で何度か訊いてきたことがあった。それはいつもドミンゴ・キニョネスだった。「ドミンゴ・キニョネスだよ!」「ドミンゴ・キニョネスと飯をくってきた!」その頃のわたしのアイドルはクト・ソトだった。そして、クトのアイドルは明らかにドミンゴ・キニョネスだった。

「ピンタンド・ルナ」(92年)「エン・ラ・インティミダ」(93年)、「ミ・メタ」(96年)、クトとドミンゴの共同制作はつづいていたが、もともとコアなサルサを好むドミンゴ・キニョネスがそれほど若くもないのにどこかアイドル風の扱いに彼自身が居心地の悪い思いをしていたのは明らかだろう。これらのアルバムは、どこか煮え切らない歯切れの悪さを隠しても隠し切れていない“遅れてきたサルセーロ“のもどかしさが感じられる。90年代の前半を謳歌していたプエルトリコのサルサの半ばには行き詰ったような空気に支配されるようになっている。プエルトリコのサルサがクラーベの意味をほとんど無視してそれを形式的にしか使わないようになっているのに対して、音楽がどんどん国境を越えはじめたキューバからは、リズムが生き返ったよな切れのいいクラーベが聞こえてくる。ニューヨークやプエルトリコのミュージシャンもそうしたキューバの動きを無視できなくなってきたのが90年代半ばから後半にかけてだった。

97年、クト周辺のミュージシャンからも、「最近のクトは同じようなものばかりでつまらない」そんな声も漏れて来ている。わたしはいつものようにプエルトリコのクト・ソトに電話を入れている。彼は今からスタジオに行くから2時間後にスタジオの方に電話をくれと言う。わたしは言われたようにした。おそらくスタジオの空気をここに再現することは不可能だろう。クト・ソト、エンジニアのロニー・トーレス、そしてドミンゴ・キニョネス、たんなる昂揚ではない、ほとんど狂気に近い盛りあがりがその空間を支配していた。皆が口々に何かを叫んでいる。わたしはコミュニケートすることを諦めて受話器を置いていた。その年の秋、そのアルバムが店頭に並んだ。それは、それまでのクト・ソトのそしてドミンゴ・キニョネスのスタイルをまったく変えたものだった。キューバ風とも、セルヒオ・ジョージ風とも言える。ベースを効かしたアレンジに小出しにしてきた社会的なメッセージやキリスト教的なメッセージを全編に繰り広げている。突き抜けたような確信がアルバムを支配しており、何かに到達したような充実感がある。その時の電話の様子を思い出しながら、わたしはあれが「何か」がつくられる時の空気なのだと納得していた。

アルバムの感動を伝えるためにわたしはまたクトに電話をしている。クトはアルバム冒頭のベースのラインを口で真似て、「俺はまだ勝ちつづけるぞ!」と叫んでいた。しかし皮肉にもこのアルバムで、ロマンティカとその後のムーブメントは完全に終わってしまった。クトは自ら彼の時代の幕引きをしたのだった。

そして、ドミンゴ・キニョネスの勢いがつくのは反対にこのアルバム「セ・ネセシータ・ウン・ミラグロ」からだ。90年代をとおして、貧しいと言われつづけてきたプエルトリコも合衆国の好況に牽引されるように、それなりの豊かさを享受するようになる。90年代のプエルトリコのサルサはそれを反映している。生活の苦しさや、貧しさを歌った歌詞は、まるでそうしたものが恥ずかしいと思うようになったかのように消え去り、ジェリー・リベラに代表されるようなティーンエージャーの淡い恋が主題になったりする。ドミンゴ・キニョネスのこのアルバムは、そうしたそうした微熱に浮いたような空気に冷水を浴びせるような効果を与えただろう。ドラッグやエイズのような疫病に日常茶飯事の殺人。こうした問題が解決したわけではなく、「小学校4年生の時の先生の子供が浜辺で殺された…..」「こんな現実をみるのに、もう疲れ果ててしまった….」こんなフレーズを挟みながら、まるで殉教者のように神を求め、そしてどこかそれに酔うように歌っている。

河村要助さんによれば、サルサは1968年ファニア・オールスターズのニューヨーク、レッドガーターの公演で生まれている。キューバのソンを基調にして、様々な音楽の要素をミックスしてニューヨークで生まれたサルサが、しだいに重点をプエルトリカンのアイデンティフィケーションへと移していく運動と結びついていく過程で、それはプロテスト・ソングの様相を帯びてくる。最近のドミンゴ・キニョネスの活動は、まるでそうした過程を再現しているようだ。およそ30年前に当たるこの時期が現在とそっくりであることは言うまでもない。ベトナムというアジアまで来て戦争を行うほどアメリカの国力は膨張しており、音楽のシーンでのジャズやソウルといったブラックミュージックの流行は、現在のR&Bなどの流行を思い起こさせるだろう。ブーガルーといったブラックな音楽とラテンの出会いは、DLGなどでセルヒオ・ジョージが再現している。まるでわたしたちが、サルサ誕生前夜にいるような奇妙な既視感囚われるとき、ドミンゴ・キニョネスの直裁なメッセージが当時のサルサの力強さを呼び寄せている。彼が、ルベン・ブラですの「シエンブラ」をつねに手本に考えているとインタビューに答え、また一昨年のクリスマス・アルバムでは、ファニア・オールスターズのヨモ・トーロをゲストに迎え、ラボー&コロンの有名なクリスマス・アルバムをリメークしてみせる。そしてそのラボーそのものを舞台で演じてみせる。そしてまた、まるでベトナム戦争の反戦運動を思い起こさせる米軍の海軍基地に対する撤退要求が起きているビエケス島問題でも、多くのミュージシャンたちとともにその支持を明らかにしている。

そして、満を持して10年ぶりのニューヨークで、マイケル・ステュアートのスマートなヒットをアレンジしたアンヘル・フェルナンデスと組んでレコーディングした新譜「ポエタ・イ・ゲレロ(詩人と戦士)」では、10曲中8曲を彼の曲で占めながら、さらにメッセージ色を深めており、また歌手が代理でメッセージを伝えるのではなく、パフォーマーが直接メッセージを伝えようとするウィリー・コロンやルベン・ブラデスなど彼が敬意を表す歌手がやっていたような形式を復活させようとしている。

ドミンゴ・キニョネスがこうしたサルサと政治や社会的な問題とふたたび結びつけようとするとき、よく指摘されることは、彼が完全に商業的なベースにいながらそうしたメッセージを発していることだ。ひとつにはそうしたヘヴィな内容を伴ったメッセージが「売れるのか?」という疑問があるようだが、それは売れている。むしろ、どこかそれも計算済みと思わせてしまうクレバーさが彼の弱み絵あるとすら言える。時代はたしかにオルタナティブなものを求めている。ドミンゴ・キニョネスは商業的なベースにいるからこそ、そうした匂いを敏感に察知している。しかしながら、サルサがかつてほとんど社会運動と化したうねりを持って鳴り響いていいた頃を夢想させるには、最近のドミンゴ・キニョネスの強力な磁場でも不十分に感じられる。音楽が日毎に個人的なものになり、「私」の小さな物語を語るメディアとなるなかで、ダルだというジャンルは、稀少にもいまだに「私たち」のことを歌おうとしている。ジミー・ボッシュとともに歌うフランキー・バスケスや、社会的な関心を隠さないマイケル・ステュアート、バリオの歌手でありつづけるビクトル・マヌエルなど、社会とサルサを連動させようとする動きはあちこちで散見されているが、こうした動きが何か結果を残すかどうかはまだ不明瞭であるし、それは、それを聴く人が「私たち」の物語をまだ必要としているかどうか、ただその一点にかかっているのである。

『ラティーナ』2000年12月号

「セ・ネセシータ・ウン・ミラグロ」の5曲目のEstuve tan cercaは、じつはぼくに捧げられている。当時何も知らずに行きつけのラテンレコードショップでこのアルバムを購入して家に帰って聴いていて、すごいアルバムだと思っていたら、突然「Pregúntale a Takeshi」と自分の名前が聞こえて、びっくりして椅子から落ちそうになった。長年の彼らとの友情がこうした形で返ってきて本当に嬉しく誇りに思った。ぼくが今ここまでやってこられたのは間違いなく彼らがいてくれたからである。

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Takeshi Inoue
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障害者自立生活センター勤務。障害者の世界と健常者の世界、スペイン語の世界と日本語の世界の仲介者。現在コスタリカの自立生活センターで働いています。 Un japonés que trabaja en el centro de vida independiente MORPHO en Costa Rica.