Takeshi Inoue
blogescala
Published in
Mar 13, 2016

ハイロ・バレーラが亡くなったのは3年前の8月だった。「タケシ、マエストロが亡くなったよ」。私がグルーポ・ニーチェのことが大好きなことを知っているカリの友人がメッセージで教えてくれたのだった。慌てて、あちこちニュースを調べてみるとすでに、スペイン語でも英語でも彼の死の知らせで溢れかえっていた。

ハイロ・バレーラは、1980年の結成以来、世界中のサルサの愛好者をつねに魅惑してきたグルーポ・ニーチェのディレクターだった。ただ一人のバンドマスターの死ならそれはいずれ訪れるもの。創設者を亡くして活動を続けている有名なオーケストラは世界中にたくさんある。バレーラが亡くなったとき、誰もが思ったのは「ああ、もうあの詩とメロディーが聴けなくなるのだ」ということだっただろう。グルーポ・ニーチェの希有なところは演奏するすべての曲の作詞作曲をバレーラが行ってきたことで、それが数あるサルサオーケストラの中でニーチェを特異なものとしてきた。庶民に最も密接した音楽で、「好き」なものを「好き」とそのまま表現することが多いサルサの歌詞の中で、バレーラはそれを二重にも三重にも捻って届けてきていた。そのため何年経っても曲は陳腐になることがなく、つねにある種の気品がそこには保たれていた。私の喪失感は相当なものだった。私が初めてグルーポ・ニーチェを聴いたのは1988年だったか、初めての南米への旅行から帰って何枚かまとめて買ったラテン音楽のLPの中にあった一枚が、1985年発売のアルバム”Se Pasó”だった。1990年メキシコ滞在中にはライブを見る機会があり、それは決定的だった。プエルトリカンのティト・ゴメスをボーカルに迎えた頃で何回かあったニーチェの絶頂期の一つだったと思う。こんなすごい音楽があるのかと思った。以来私はある意味ハイロ・バレーラとこのオーケストラと歩みを共にしていたと思う。ほぼ一年に一枚リリースされるアルバムは私にとってはどれも事件だった。年月とともにサルサは過去の音楽になっていっていたけれども、それでもニーチェはかろうじて未来を切り開いて行っていて、何らかの新しさを提案することを止めなかった。私は1994年から雑誌にサルサのレビューを書くことを始めており、2000年グルーポ・ニーチェの20周年のときには彼らの歴史を振り返ったかなり分量の多い記事を投稿した。それは彼らの20周年の記念でもあり、わたしが彼らとともにした歩みの記録でもあった。

おそらくキブドー(Quibdó)という地名を知ったのは、その記事のためにバレーラのプロフィールを調べていたときではなかったかと思う。ニーチェのメンバーがチョコーというコロンビア太平洋岸の地方の出身で、そこはコロンビアの中でも低開発地帯で黒人が多く住む所であることはよく知られていることで、彼らの曲の中でも度々触れられている。クルラオというアフリカ起源の独特のリズムの民族音楽があって、それはちょうどプエルトリコのサルサのベースにボンバやプレーナがあるのと対応しているなどというのが、まるでコロンビアのサルサの創世記のように流通していた。キブドーはそこの県都であり、バレーラはそこで生まれ成人してボゴタに移るまでそこで育った。キブドー、チョコー….神話に出てくる町の名前のようにそれはわたしの記憶の中にとどまったまま消えることはなかった。

職場でラテンアメリカの障害者の支援を開始したのは2008年のことだった。コスタリカを中心にグァテマラ、ニカラグア、ホンジュラス、ボリビアとかつて旅行したことがある国や仕事で初めて行くことになった国など私の人生の中に再びラテンアメリカとの関わりが復活することになった。しかしながらコロンビアからの研修生を受け入れたりもしてはいたが、またあの国に行くことにはならなかった。もう縁がないのかと思いはじめていた今年、仕事でメデジンに行くことになった。久しぶりにコロンビアに行けるのに浮き浮きしながら『South America Handbook』を調べていると、メデジンとキブドーとは近くにあることがわかった。これは行くしかないな。そう思った。これが今回のキブドー訪問の発端だった。

しかし実際には、キブドーとメデジンはそれほど近いわけではなかった。地図で見るととても近くにあり、バスに4時間も乗れば着いてしまいそうな距離に見えたのだが、じつはこの間にはアンデス山脈が横たわっているらしく、しかも道が悪くバスでは13時間必要だとのことだった。私はすでにボゴタからメデジンまでバスで10時間以上の旅をして到着していたので、予定のやりくりからもさらに13時間のバスを往復する余裕はなく、ここは小型飛行機を使って行くことにした。

メデジンには国際専用の空港が郊外に一つ、国内専用の空港が市内にもう一つある。今回は市内の空港から出発する。20数名ほどの乗客しか乗ることのできない小さな飛行機で出発。バスだと13時間だが、飛行機だといくら小型のプロペラ機でも30分もしないで着いてしまう。多少理不尽な思いもしながらキブドーに到着した。あっと言うまに別世界に来た。そこでは光の量がまったく違う、暑い地方特有の照りつけるような日差しが滑走路から反射していた。空港を出てすぐにタクシーを拾うと、ここに来てまだ間もないんだという運転手がそこいらで場所を訊ねながら、じきにあらかじめBooking.comで予約しておいたホテルに到着した。うろうろしたがとくに多く取られることもなかった。ここの人は親切だ。そんな印象が残った。

ホテルは一泊15ドルほどの安い宿だった。受付は薄暗く呼ぶと廊下の奥から奥さんの目だけが光って見えた。タクシーで空港から町中まで来る間何台のバイクとすれ違ったことだろうか。ラテンアメリカでこんなにバイクが主要な移動手段になっている町は初めて見た。まるでアジアのどこかの町みたいだ。そう思った。乗っているのはほとんどが黒人で、カップルの二人乗りかあるいは親子であったり。奥さんの顔は暗がりで隠れて目だけが光って見えたのだ。ああ、ここはそういった町なのだ。あらためてそう思った。

いつか行ってみたいと思っていたのはたしかだ。しかし本当に来ることになるとは。それほど人生はこの町から逸れて進んでいたと思う。人生には意志だけではどうしようもないこともある。むしろその方が多い。しかしわたしはここに来た。それは結局そういうことだったのだ。

わたしはハイロ・バレーラを偲ぼうとやって来た。しかしとくに生家を捜して見に行こうとしたわけでもない。そんなこともした方がよかったのかも知れないが習慣づいた旅の行動がすぐに変わるわけでもない。わたしはただ町をあてもなくふらつき、疲れたらご飯を食べに店屋に入ったりコーヒーを飲んだり。ホテルに帰って休み、また夕方涼しくなったらふらつきに出かけたり。夕食を食べに入った広場前のピザ屋で、ビールを飲みながら注文を待っていると、当たり前にグルーポ・ニーチェの曲が流れてくる。

Que sepan en Puerto Rico, que es la tierra del gibarito,
a Nueva York hoy mi canto, perdonen que no les dedico,
a Panamá, Venezuela, a todos, todos hermanitos,
el grupo niche disculpas pide pues no es nuestra culpa
que en la costa del Pacífico hay un pueblo que lo llevamos
en el alma, se nos pegaron y con otros lo comparamos,
allá hay cariño, ternura, ambiente de sabrosura,
los cueros van en la sangre del pequeño
hasta el más grande.
Son niches como nosotros, de alegría siempre en el rostro.
A ti mi Buenaventura con amor te lo dedicamos.

ブエナベントゥラ イ カネイという曲でチョコーよりもっと南にあるやはり太平洋岸の町を歌っている。いくつかあるバージョンの中でティト・ゴメスが歌ったものだった。プエルトリコはヒバロの国だし、今日歌ってるニューヨークにも、兄弟のパナマにもベネズエラにもこの曲は捧げない。なぜなら生まれ故郷の温かさや優しさと比べちゃうから、だから愛をこめてこれをブエナベントゥラに捧げます、そんな歌い出しになっている。

少し酔って来ていたが、ゾクゾクしてくる。ああ、この町で聴くこの曲はなんて特別なんだろう。おそらくここに住む人たちはみなこの曲を自分たちに向かって歌っているように感じているんだろう。そういう風に思わせていた。もちろんここはブエナベントゥラではないのだけど、彼らの故郷はここキブドー。そんなことはここに住む人たちはみんな知っている。

道を歩いているとどこかの店から当たり前のようにニーチェの曲が流れて来る。まるで今現在のヒット曲のように、Gota de lluvia が、夜たくさん雨が降った翌朝ムッとし出した通りの光の中を通り過ぎてゆく。

Mi pueblo 私の町という曲がある。ここに来る前にキブドーとハイロ・バレーラの事を調べているとすぐに見つかったのはバレーラが亡くなった時にカリに埋葬される前に一旦遺体が運ばれて来た時の映像で、町の中心にある大聖堂に帰って来たバレーラをキブドーの人たちはこの曲を合唱しながら出迎えていたのだった。この大聖堂はニーチェの曲にも頻繁に出てくるアトラト川の畔にあり、小さな町であるのでどこにいてもすぐにこの教会に辿り着くようになっている。

わたしも着くすぐにこの教会を見つけ、しばらく町をぶらぶらして写真などを撮って歩いて、飽きると自然とここに帰って来てぼうっとアトラト川を往き来する小舟を眺めているようになっていた。真昼はカンカンになるここの気候も日暮れ近くになるとは川から心地よい風が流れて来ている。

大聖堂では一日何回かミサが行われ、ある時それに出くわした時、わたしは、雷に打たれるような気がした。こんな表現が決して大仰なものではないような気分だった。それはミサの賛美歌を伴奏する音楽が教会の中から聞こえてきた時で、構成はシンセサイザーに黒人の女性のボーカルを乗っけただけのごくシンプルなものだった。神父さんの言葉を待って合間になると始まる。それはまるで、ニーチェのボーカリストだったチャーリー・カルドナやニーチェの弟分のオーケストラ、アルマ・デル・バリオのチャーリー・サーの。彼らを追っかける無数のフォロアーボーカリストと同じタイプのものだった。「これがニーチェのルーツだったのだ」。まるで探偵が長年探し求めていたターゲットをとうとう見つけたような気分になった。

旅にいちいち意義を求めるのも無粋だろう。期待の多くは無為に終わる。しかしあるいは何も期待していない時にこうした幸運に出会うこともある。わたしはすっかり満足してこの町を後にしようとしていた。ホテルの奥さんに挨拶して通りに出た。わたしは彼女にここが気に入ったのでまた来ますと言った。

+Mi Puebloは、1992年リリースのLlegando al 100%に含まれている曲だ。チャーリー・カルドナ在籍時の頂点を構成する一枚である。今回ボゴタで国立博物館を訪れて来たのだけれど、展示は長年の内戦を終えようとしている現在のコロンビアが、どの民族も性別も排除すること今一度国家の統一を感じ得るような、ベネディクト・アンダースンばりのイマジナリーなコロンビア展といえるようなものだった。その中で、一室内戦で被害を受けて家族を失った女性を追ったドキュメンタリーを上映している部屋があり、そのドキュメンタリーでも、Mi Pueblo は、故郷への帰還を表す象徴的な曲として使われていた。曲が民衆に必要とされまた彼らに育てられているのだと感じた。

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Takeshi Inoue
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障害者自立生活センター勤務。障害者の世界と健常者の世界、スペイン語の世界と日本語の世界の仲介者。現在コスタリカの自立生活センターで働いています。 Un japonés que trabaja en el centro de vida independiente MORPHO en Costa Rica.