Takeshi Inoue
blogescala
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10 min readMay 14, 2019

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ジェリー・リベラは、新作のレコーディングの真っ最中である。本稿執筆時点で、プエルトリコ側の録音のミックス段階を終えようとしているところだ。というのも、この新作、10曲からなり、5曲をクト・ソトとお馴染みのメンバーが、プエルトリコのパワーライト・スタジオ、そして、残りの5曲をセルヒオ・ジョージがニューヨークの彼のスタジオで録音するという。レコーディングの前にプエルトリコにおいて、クト・ソトとセルヒオ・ジョージの打ち合わせが持たれたらしい。この現代サルサを代表するプロデューサー2人が、音楽について語らう姿を想像するだけで、何か微笑ましくも、幸福な気分にさせられるのはわたしたちだけだろうか。

ビクトル・マヌエルが、育ての親とも言えるラモン・サンチェスの手を離れて、セルヒオのプロデュースでいちだんと成長を見せたように、実質上のデヴューから、ずっとクトのもとで育てられたジェリーも半分親離れしたのかどうか。それは、作品の出来が決定してくれるだろう。 本稿の目的は、このジェリーに端を発するポップ・サルサの、簡単な歴史のスケッチと現状を叙述することにあるのだが、そのまえに、少しばかし、現在、サルサ界の動きがどうなっているのかを、ニューヨーク=プエルトリコ間の関係を中心に見ておこう。そして、そのなかで、わたしたちがポップ・サルサと呼ぶムーブメントが占める位置を確定していこうと思う。

数ヶ月前、ホセ・フェブレスの訃報が飛び込んで来て、このニューヨークの空気を体現するような名アレンジャーの死が、そのままニューヨーク・サルサの冷え込みぶりを伝えるような感慨を持ったものだが、いまから考えると93年のエクトル・ラボーの死がニューヨーク・サルサの一時代に終止符を打ったように思える。ホセ・フェブレスのいかにもニューヨークらしいアレンジを生かせる歌手がもはや存在しなかったのだ。やはり93年のルイ・ラミレスの死とともに象徴的な出来事のひとつであるだろう。

そんなニューヨークのシーンのおいて、相変わらず活発な活動をつづけているのは、前述のセルヒオとイシドロ・インファンテだが、相拮抗するようにニューヨークの空白を、それぞれ独自のスタイルを持って、アレンジ、プロデュースを通じて埋めてきた2人の現代のマエストロは、94年にイシドロが自身のオルケスタ “LA ELI’TE”を組織したときから異なった道を歩み始めたようだ。オルケスタを率いて精力的にライブ活動を行っているイシドロだが、以来、一時のように狂ったようなアレンジとピアノソロを含んだプロデュース作品にお目にかかることは少なくなった。一方セルヒオはRMMで雇われプロデューサーのようなことをやりながら、とうとう自身のプロダクションとスタジオを手に入れ、その第一作、 『VICTOR MANUELLE』がヒットし、最近リリースされたばかりのラガ=サルサ『DLG』もかなりうけていると聞く。

サルサは芸術であり、なおかつ、商品である、というのがわたしたちの持論だが、これは、キューバの昔から変わらないように思われる。資本の流れにそって商品は動いていく。そして、流れはひとをも運ぶ。サルサが、様々な国からの移民による、いわば「移動のダイナミズム」によって、おもに、ニューヨークで育まれたという事実をここで繰り返す必要はないだろうが、そのなかで、わたしたちが述べようとしている、ニューヨーク=プエルトリコ間の流れに異変が起きていることは指摘しておかねばならないだろう。上述のように空洞化しつつあるニューヨークのシーンとサルサ生産工場の様相を呈しているプエルトリコとの関係において、かつては一方的にニューヨークの方に向いていた流れが逆流しようとしている。明らかにそれはプエルトリコの方を向き始めているのだ。奇しくも、それは、先の2人のアーティストの仕事にもあらわれている。イシドロは “LA ELI’TE”名義の2枚のアルバムを発表しているが、2枚とも、パーカッションはニューヨークで、ホーンとコロはプエルトリコで録音されている。セルヒオの 『VICTOR MANUELLE』は、バックはすべてニューヨークの彼のスタジオで録音されているが、ビクトルのヴォーカルはロニー・トーレス(クトが100%信用しているというプエルトリコのエンジニア)のパワーライト・スタジオで録られている。また、今年始めにリリースされ、ニューヨーク久々のヒットとなったダニー・ロホの『REGALAME TU AMOR』(プロデュースはリッキー・ゴンサレス)は8曲中半数がクトをはじめ、ラモン・サンチェス、ウンベルト・ラミレス、フリオ・アルバラードとプエルトリコのアレンジャーで占められており、最近のニューヨーク発の作品にありがちな行き詰まり感を回避している。他にも93年からのウィリー・コローンの、そして、昨年のティト・ニエベスといったニューヨークを代表するようなアーティストのプエルトリコでの録音など例証には事欠かないないだろう。20年前の現実からは想像もできないことだが、まさしく、これが現在の傾向であり、多くのアーティストが何らかの形で、プエルトリコに係わりを持ち始めている。いまや、プエルトリコの方が仕事があるのだ。(長年ニューヨークで活躍してきた、ルイス・ペリーコ・オルティス、そしてベーシストのジョニー・トーレスのプエルトリコへの帰還は、それを象徴しているように思われる。)

それでは、なぜ、流れが、プエルトリコの方へ向くようになったのか。わたしたちはオプティミストではないが、期待を込めてこう答えよう。「プエルトリコには未来がある」。たしかに、人は金銭の流れにそって動く。しかし、それは未来への投資でもある。プエルトリコのアーティストは、サルサ・ロマンティカが行き詰まったとき、後ろを振り向かなかった。あらたなムーブメントを探り、あらたな、若いミュージシャンに明日を見ようとした。冒頭で述べた、ジェリー・リベラがその急先鋒となり、その賭とも思える一撃に勝利し、それを現在、ポップ・サルサとも呼びうる一連のムーブメントになすまでになったのだ。

このように、ポップ・サルサの短い歴史は、ジェリー・リベラの90年の作品『ABRIENDO PUERTAS』に始まる。まさしく「扉を開いた」のだ。そして、次作92年の『CUENTA CONMIGO』のメガ・ヒットがそれを確実なものにする。翌93年には、最近新譜を発表した、ミゲル・アントニオの『SOÑANDOTE』、ジロの 『SIMPLEMENTE UN CORAZÓN』がリリースされる。最初のフォロアーたちだ。ここで、注目しておきたいのは、ジェリーとジロをプロデュースしたのが、クト・ソト、ミゲル・アントニオはアンジェロ・トーレスとラモン・”マッチ”・ロドリゲスのコンビであるということだ。彼らはロマンティカ全盛時、エディ・サンティアゴのオルケスタのメムバーとしてそれぞれトロンボーンとベースを担当して、アメリカ大陸各国をツアーで廻っていた同僚なのだ。新しい波の種は既にロマンティカのなかに用意されていたことになる。ロマンティカの喧噪のなかで自己を失わず、冷静に明日を見つめていたアーティストが現在、あらたなムーブメントの担い手となっている。(アンジェロとマッチのコンビの、その現代サルサ界に占める独特の位置は、機会をあらためて詳述したいと思う。)

ジロはすべて、クトとのコンビで、3枚のアルバムをリリースしている。そのどれもがプエルトリコの若い人々に支持され、つねにヒット・チャートの上位、あるいは、一位に上りつめている。ジェリーについては言うまでもないと思う。昨年のポップ・サルサの収穫はやはりクトのプロデュースによる、ジョマールのサルサデヴューだろう。CAIMANというマイナー・レーベルでデヴューしたこの16歳の少年は、12歳のときからポップスを歌っており、今回のサルサデヴューとなった。ヒットしたかは定かではないが、既にソニーとの契約が決まっているらしい。

そして、若い人たちによる、若い人たちのためのサルサという流れを決定的にしたのが一昨年デヴューした、サルサ・キッズの爆発的なヒットだろう。(キューバでもうけているらしい)。この日本のジャニーズ現象にも似た、3人のティーンエイジの男の子たちによるヴォーカル・グループの成功は、さまざまな意味で示唆的である。このグループが発表している唯一のアルバムは、現在サルサ界で最も多忙な男、ラモン・サンチェスによってプロデュースされている。ホーンを一切省いた編成の変わりにラモンの華麗なシンセサイザーが鳴り、リズム隊は、ティンバレスのチャゴ・マルティネスはじめこれ以上はないという精鋭セッションマンで固められている。少年たちのコーラスを生かすには編成は出来るだけシンプルな方がいいのだ。サルサが最もポップスに近づいた瞬間である。しかし、これは果たして「サルサ」と絶縁してしまっているのだろうか。わたしたちは再びロマンティカに向かって投げかけた問いを繰り返さねばならないだろう。ロマンティカの答えは「ノー」だった。わたしたちの考えではロマンティカは、プエルトリコ・サルサの美学の最終段階であった。しかし、いま、その考えを改めなければならないかも知れない。先に述べたように新しい種は既にロマンティカのなかで播かれていた。何らかの地下水脈めいたものが流れていて、それが形を変えて表現されると考える方が自然だろう。その証拠に、サルサ・キッズでラモン・サンチェスが取った手法は、ロマンティカの極北とも言えるウィリー・ゴンサレスの『PARA USTEDES..EL PUBLICO』でラモンが極端にシンプルなアレンジでウィリーの歌の持ち味を十二分に発揮させた手法と対比させることができるだろう。歌を大事に考えるプエルトリコ・サルサの伝統の一端がうかがえる。

この男子数人、3人あるいは4人によるヴォーカル・グループという構成は流行になりつつある。サルサ・キッズが現れる前にクト・ソトプロデュースによる、ア・4・ティエンポという4人組グループがデヴューしており、この形式の最初のグループである。昨年、メレンゲの大御所でひそかなサルサ・ファンとして知られるボニー・セペーダのコンセプトでイスラ・カリエンテ(こちらも4人組)がデヴューしている。サルサ・キッズほどの爆発的なヒットではないが、かなり当たった様子で今年はやくもセカンドをリリースしている。流れに乗り遅れまいとMP社からはプリメラ・クラセという4人組だがアダルトな雰囲気を強調しているグループが売り出されている。

あたらしいものが生まれるときには必ず反動的な反応しめす人々が出てくる。しかし、わたしたちは明日を見る人たちとともに歩みたいと思う。そして、まったくあたらしいものは存在しない。サルサ・キッズのなかにも長い長いサルサの歴史が隠されているだろう。自分勝手な、新しさを気取っただけの作品は人の支持を受けないものだ。つねに、聴衆をを楽しませることを考えてきたこと。たとえ、それがトラディショナルなサルサの範疇を超え出てしまっても、それが明日につながるものであったからこそ、プエルトリコ・サルサの現在がある。

『ラティーナ』1996年9月号

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Takeshi Inoue
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障害者自立生活センター勤務。障害者の世界と健常者の世界、スペイン語の世界と日本語の世界の仲介者。現在コスタリカの自立生活センターで働いています。 Un japonés que trabaja en el centro de vida independiente MORPHO en Costa Rica.