Takeshi Inoue
blogescala
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Jul 29, 2023

チリを一週間ほど訪れるとこになり、ヒメナに旅程を考えてもらっていたらしばらくして、「南にある自分の生まれ故郷で講演を頼まれたのでいっしょに行かない?」とメッセージが来た。

Al sur、チリで「南へ」というときには独特のニュアンスがあり、もうその瞬間に私は逆らいがたい誘惑に囚われて、何としてもこれは実現しなければと考えたのだった。私はこれまで1988年に初めて訪れて以来、1992年にスペイン語の勉強のため長期に滞在したのを含め4回チリに来たことがありこれが5回目の訪問となるが、これまで一度チリの南の方の町に行ってみたいと思いつつも、いつも首都のサンティアゴや、せいぜい港町のバルパライソあたりまで足を伸ばすのがやっとだった。プエルトモン、バルディビア、テムコ、コンセプション、こうした地名を聞くときにはいつも独特な芳しい響きがあった。

ヒメナの生まれ故郷はロンコチェといい、私には初めて聞く町の名だった。Wikipediaで調べれてみるとアラウカニア県に属し、植民地化に抗い最後まで抵抗運動をつづけた有名な先住民マプーチェのテリトリーがこのあたりだった。「南へ」という欲望に、さらに輪をかけてこの地へ誘う要因が加わっていた。

ちょうどこのとき、『不穏な熱帯 人間〈以前〉と〈以後〉の人類学』を上梓した里見龍樹さんのツイッターでこのようなツイートが目に入った「箭内匡「アイデンティティの識別不能地帯で」(『日常的実践のエスノグラフィ』所収)は、日本語で書かれた現代人類学の最重要テクストです。「すでに構成された諸形態」から「構成してゆく諸力」へと民族誌的に遡行する、ドゥルーズ派人類学の衝撃のマニフェスト」。これは読まねばと何も考えず取り急ぎ取り寄せてたら、これが何とまさにマプーチェをフィールドワークして書かれた論文だった。何というタイミングだろう。

7月10日にブエノスアイレスからサンティアゴに入りそのままヒメナの「チリ自立生活協会」のメンバーと会合、翌日夜行バスに乗ってヒメナとパートナーのカルロス、冬休みをヒメナのアパートで過ごしていた姪のエミリーとで南に向かった。朝まだ暗い時刻にプコンという町に着くと義理の弟のパトリシオが車で迎えに来てくれていた。連れて行ってくれたのは、妹の家族が先に来て泊まっていた森の中のコテージで、何も知らされていなかったがどうやら私たちもここに泊まるらしい。

到着して一休みしたら、コテージから車ですぐのカブルグア湖に連れて行ってくれそこで車椅子のヒメナも交えて板を操るボート遊びを楽しんだ。もう移動の疲れもあり消耗し切ってコテージに帰り昼食となった。チリに入ってわけもわからないまま予定をこなし、ようやく落ち着いて食事をし話をするような気分だった。男たちはバルディビアのビールを飲んでホッとして会話も弾んできた。私はヒメナに「ロンコチェはマプーチェのテリトリーの中にあるんだよね?」と訊くと彼女は「まあまあそうね」と微妙な言い方をした。「きみは家族にマプーチェもいると言ってたけど、それなどういうことだろう?ある家族がマプーチェだったらその家族はみんなマプーチェじゃないの?」私がさらにそう訊くと、正面にいたカルロスが「われわれチリ人は多かれ少なかれ混血なんだよ。たとえばぼくの祖父にはシリア人の家系から来ている」と代わりに答えた。するとその隣にいた妹のパートナーであるパトリシオが彼らの子供たちを指して「この子らはマプーチェだよ」と言った。8歳のお姉ちゃんのパスも弟のナウェルも真っ白い肌の色で私がマプーチェと聞いてイメージする容貌とはかけ離れていた。見た目ではなかなかわからないが、自分たちでははっきり誰がマプーチェでそうでないかは認識されているようだった。ちなみにナウェルはマプーチェの言葉でジャガーを意味する。

翌日、コテージを引き払って妹の夫婦は小さいナウェルを連れて一足先にロンコチェに。ヒメナ夫妻とパスとエミリー、そして私とでアルゼンチン国境に近いラニン火山の麓まで足を延ばした。マルコというガイドが車で私たちに同行してくれた。一帯は国立公園になっており、整備された国道を走らせていても、突然森の中に静謐な湖が現れ周囲の山々や空を反復している。私がこれまで体験したことのない風景が広がり、それに包まれているのがこの上なく心地よく感じられていた。そしてすぐにこの複雑な地形がマプーチェのけっして諦めることのない抵抗を可能にしているのを理解した。

私たちが到着したプコンが面していたのがビジャリカ湖でありこの周辺にある無数の湖で最も大きなものである。その南にあるのがカラフケン湖で、その湖の北西部地域がフィールドワークのサイトがあったと箭内は述べている。

何と言ったらいいのか。たしかに私はここに来たかったのではあるが、ここを目指して来たということではなかったと思う。まるで何かの魔法にかかったかのように気がついたら、このマプーチェのテリトリーの真っ只中にいた。「旅」はときおりこうして私たちにその秘術を見せることがある。私の人生に何度それがあっただろうか。

旅に出て、とても強烈な体験をして自分が刷新されるように感じることがある。それ以前と以後とではもう同じ自分ではない。そしてそうした体験をいくつか繰り返しているうちに何か旅は「技法」のようなものとなりコツを覚えるようになる。そして「これはどの旅の反復だろうか?」こう自問するときがある。私は今この旅を、1987年私がエルパソからメキシコへと降りてラテンアメリカに初めて触れたあの旅の反復ではないだろうか?と振り返っている。それまで私を培ってきた場所ではもう私は生きれない。私は出口を、突破口を求めていた。私はおそらくあの旅で、その後私はどのように生きるか、どのような人になりたいか、誰の側に立って生きるのかなどなど、そうした基本的な姿勢を無意識に決定している。それは世間一般の基準とはやや外れていもしたので、実人生での着地点を見つけることに苦労したが、今の仕事に出会い、「障害者」という「媒介者」をつかまえて初めて私は私自身の人生を展開することができるようになったのだった。その1987年の旅は「南へ」という意志に突かれていた。サンフランシスコから始まり南へ南へと下りサンティアゴで終わっている。聖人から始まり聖人で終わる旅だった。

今回の旅でも、やはり何かを求めていた。旅であるのでそれが何であるかはすぐには明らかにされない。勘や匂いを頼りに探り彷徨ってみる。そして誘われるままにそちらにふらっと赴いてみる。すると行ってみて初めて私はやはりここでも再び「南へ」という意志に憑かれていたことがわかる。さらに深い「南へ」という。

「南へ」というのは、私にとって私自身がより自由になる運動であったと言えるだろう。そしてその過程で障害者が自由になる運動に出会いそれと共に闘いながら一つのサークルを閉じたのが、この4月にコスタリカのプロジェクトを終えたときだった。一仕事終えて本来ならここでお役御免でもよかったものの、ふと振り返るとそれほど思ったように世界は変わっておらず、依然として自由でない人たちに溢れている。さらに悪いことには、私自身が、このあまり変わらなかった世界を結局強化するような仕事しかできなかったのではなかったか?と思ってしまったことだった。コスタリカのプロジェクトで国の法律まで作ってしまったものだから、いい気になって「歴史を作る」とか「歴史的な出来事」みたいなとをよく口にしたと思う。しかし振り返ると結局「歴史」に囚われてしまっていたのではないのか。

箭内は「アイデンティティの識別不能地帯で」で、どうしようも避けようもないチリ的な社会文化に囲まれて生きるマプーチェの人たちが、その与えられた「歴史的な条件」をそれぞれの仕方が抜け出して新たな「生」を生きるさまを描いている。そしてこれがこの論文の肝となるところだが、彼のような「生成」の民族誌を描く実践そのものが、描かれる、ここではマプーチェの人たちの「生」と共鳴していく。「さらにいえば、そこで生まれる「新しいもの」は、マプーチェとも人類学とも全く関係のない人々の営みと、何らかの形で結びついてゆく可能性さえ秘めている。その意味では、「生成(なる)」の民族誌の真の対象とは、目前の研究対象とする社会の枠を飛び出して広がってゆく、生の力そのもの、といえるかもしれない」(箭内匡「アイデンティティの識別不能地帯で」『日常的実践のエスノグラフィ』p.230)

さて、ここまで来たら私が今後進むべき道は明らかであろう。私はマプーチェになった。ここが私の新たな抵抗の拠点となる。

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Takeshi Inoue
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障害者自立生活センター勤務。障害者の世界と健常者の世界、スペイン語の世界と日本語の世界の仲介者。現在コスタリカの自立生活センターで働いています。 Un japonés que trabaja en el centro de vida independiente MORPHO en Costa Rica.