Takeshi Inoue
blogescala
Published in
Dec 30, 2021

「井上さんは野宿仲間なんだよ」、初めての人によくそうやって紹介してくれて、そのときに相手の頭の中に「野宿?」とはてなマークが踊るのをちょっと楽しんでいるようなところがあった。まずはぼくにとってそうやって紹介してくれる古い戦友がいなくなるのがとてつもなく寂しい。

近年はそうそう緊密に連絡を取ってるわけでもなかったし、何年か前に新潟の病院に入院していたときの様子から、遠からずこうした日が来るだろうこともどこかで覚悟もしていたので、それほどショックは受けないのではないかと思っていたのだけれど大間違いだった。昨日はフェイスブックに流れてくる家族や恋人たちのクリスマスの団欒がまるで別世界の出来事のように、一人になると、気がつくと彼女のことを考えていて、ふと思い出が蘇って、それがもう二度と訪れないのだとわかるともう涙が溢れ出してどうにもならなくなった。

「野宿」とは、2001年7月から8月にかけて日本と韓国の障害者たちがいっしょになって、釜山からソウルまで約500キロをそれこそ野宿しながら徒歩で歩くという催しのことだ。翌年の2002年のワールドカップで使用される競技場をバリアフリーチェックしながら歩くという趣旨だった。ぼくはメインストリーム協会のアルバイトの介助者で、彼女は英語も堪能な大学生を終えて、普通に社会に出て仕事ができると考えていたのが、それが間違いだったとわかった後、しばらく自宅で何もしてない頃にこの催しに誘われたのだった。

ぼくと海老原さんはともに自分のこの世界でのキャリアを語る時にここを起点にして話す。ぼくらにとってこれがなければおそらく以降こんなにこの世界にどっぷり浸かって仕事をすることはなかっただろう、そんな濃密な一ヶ月間だった。その後日本では2003年障害者の介助派遣が正式に国の制度となり、全国に一斉にできた自立生活センターの一つとして彼女は東大和のCILを立ち上げた。ぼくは同じタイミングでメインストリーム協会の職員になったので、その後のキャリアもほぼ同じように歩んでいると気づいたのは、2018年に15周年を迎える多くのセンターの中の一つだったつくばのほにゃらの記念のイベントに参加したとき登壇者の一人として海老原さんが出演していたときだった。

海老原さんはもちろん忙しい人で全国を飛び歩いていたし、ぼくも2008年からはラテンアメリカの仕事を始めていた。そんなに度々会う機会もなく、JILやDPIのセミナーや彼女がたまにメインストリームに立ち寄るときに会ったりするくらいだった。それが、めずらしく連絡を密にして話しをする期間があった。それはやはり多くの人が語る彼女のインクルーシブ教育を推進する活動に絡んでだった。

ぼくにとって、2016年7月の相模原事件は本当に衝撃的で、コスタリカでその日を知って以来、何か本気で物事を変えようとしないと永遠にこの国はこのままつづいていくと考えていた。そして、障害者問題としてではなく、もっと多くの人を巻き込んだ動きにするには教育の問題に取り組まないといけないと思った。そんなまさにタイミングで海老原さんは東京都のインクルーシブ教育の運動を始めていて、ぼくはこれしかないと思い、その頃始まり出していた地元西宮でのインクルーシブ教育の活動との連携を探るために、海老原さんらの会合に顔を出したりした。最初に行ったのは2017年の10月で、そのときお宅にお邪魔して、朝までお酒を飲んでおしゃべりをしたと思う。何を話したかまったく覚えていないのだけれど、そうした時間を過ごせたのが今になればとても貴重なことだった。この活動は職場の同僚に託し、ぼくはそれから「筋ジス病棟の未来を考えるプロジェクト」を立ち上げて現在までつづけているというのがその後の大ざっぱな経緯である。

その前年、ウェンディがコスタリカから来て、浜松であったJILセミナーで会った彼女に紹介したことがあった。時間がなくて講義中にそっと彼女の横までウェンディを連れて行って紹介だけしたと思う。ぼくがともに敬意を持ちながらこの世界で活動している二人の対面はぼくがどうしても果たしたかったものだった。彼女がぼくの中南米での仕事をどう思って見ていたかは聞いたことがなかったが、本人は英語もでき、海外での活動もやりたいが、体力に限界もあるのでやることを絞らないとと語っていたと記憶している。

それでも猛烈に働いていたのが海老原さんだった。死の前日まで仕事をしていたのはまさに彼女らしいと思った。海老原さんは一貫してJILや他の団体内でのフェミニストの運動には冷たかったが、今あらためて振り返ると彼女は90年代型のリベラルフェミニストだったのだと思う。機会さえ与えられれば、実力を発揮して男女の差なく仕事ができるはず、おそらくそう考えていた。それはストレートな考え方の自立生活運動とも重なるところもあった。それは、インクルーシブ教育を通して彼女が否定していたエイブリズムそのものであったし、言うこととやることに矛盾もあっただろう。結局はそれは彼女の死期も早めていただろうとも思う。ただ今はもうそんなことはどちらでもよく、あの韓国の夏から20年、一点の隙もない完全燃焼の人生を生き抜いた。ただただよくがんばった、ゆっくり休んでくださいと言いたい。そして、後は任せてくださいと。きみが声をかけた多くの障害者の人たちはもう立派にそれぞれの持ち場で活動しているし、それはこれからどんどん大きくなっていくでしょう。

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Takeshi Inoue
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障害者自立生活センター勤務。障害者の世界と健常者の世界、スペイン語の世界と日本語の世界の仲介者。現在コスタリカの自立生活センターで働いています。 Un japonés que trabaja en el centro de vida independiente MORPHO en Costa Rica.