言語を学ぶということ

小学生のころ、国語という授業に意義を見出せなかった。

それ以外の座学は“頭の体操”“考え方の練習“だと思っていたし、単純に知らないことを知ることで自分が前進している感覚があった。でも国語は違う。漢字の学習(新しいことを覚える作業)を別にすれば、国語を学ぶことに「前進」感はない。授業で問われる問題は、日常的に日本語を使っていれば当たり前のことのように思えた。それは「解く」ものなんだろうか? 明確な解答があるのかないのかよくわからないことも、学習の対象として腑に落ちない点だった。

その意義を薄ぼんやりとでも理解できるようになったのは、中学に入って英語の授業が始まってからのこと。知らない国の知らない言語を学ぶことをとおして、息をするように使っているこの言葉にはある種の決まりがあり、それはほかの国や民族の人たちのものとは違うらしいということを知った。また、それを意識しないほどに、日本語というものが自分の思考や行動に染み込んでいる様も。

わたしにとって、英語学習で得た最大のものは、こうした「日本語の外部化」だ。


ここ数年、英語学習における4技能の必要性が叫ばれている。「読む」「聞く」「書く」「話す」の4つのスキルをバランスよく身につけ、「本当に使える英語」を習得しようというものだ。しかし、はたして「使える英語」を身につけることだけが学校における英語学習の役割だろうか。

4技能の中でも、特に重要視されているのが「書く」「話す」といった発信型のスキルだ。自分の意見や考えを相手に伝えるための英語力。正直そんなものは小手先の技術ではないかと、わたしは思う。

英語を「喋れる」ようになるだけなら英会話教室に通えばいい。英語圏で暮らせばものの3ヶ月でそれなりの意思疎通ができるようになる。そんなことさえせずとも、きっとそのうちAIが代わりにやってくれるだろう。単純に「使える=通じる英語」を手に入れるのは、実は結構簡単なことなのかもしれない。

重要なのは、むしろ「通じない英語」のほうじゃないだろうか。それは、自分たちとは異なる英語話者の文化、世界の切り取り方を知ろうとするきっかけを与えてくれる。

たとえば「art」という英単語。「芸術」という訳がすぐに思いつくが、それ以外にもたくさんの訳し方がある。それぞれの「意味」を理解できても、それが混ざりあったような独特のニュアンスは日本語に訳し切れるものではない。Elizabeth BishopのOne Artという詩を読んだときにそのことを実感した。以下はその冒頭。

ONE ART
The art of losing isn’t hard to master;
so many things seem filled with the intent
to be lost that their loss is no disaster.
ひとつの術
ものを失くする術を覚えるのは、難しくない。
もともと失くされようという魂胆が見え見えで、
失くしたところで大事に至らないものも、ごまんとある。

『アメリカ名詩選』(亀井俊介・川本皓嗣 編、岩波文庫、1993年)

ここでは「術」と訳されているが、「technique」でも「method」でも「way」でもなく「art」でしか伝えられないものとはなんだろう。わたしはいまだにそれを理解できないが、そこに特別なニュアンスがあるということはわかる。

これは日本人が考えたコピーだけれど、タワーレコードの「No Music, No Life」も、日本語に訳すことのできない言葉だと思う。特に「Life」は、日本語の「生活」とも「人生」とも置き換えられない。それらをミックスさせたうえで、もっと混沌とした「生きることそのもの」という印象がある。

こうした英語と日本語の違いを理解…まではできなくとも、「違うことを理解し、彼らのことがわかるように努力する」ことが外国語学習の最たる目的なのではないか。そうした学びは、多様性への理解というこれからの社会でもっとも価値ある教養を育んでくれる。「使える英語」などというのは、そのおまけでついてくるものでしかない。


「通じない言葉」は、当たり前だけど英語だけではない。たとえば「手話語」。ろう者たちは、その言語をとおして、音が聞こえるわたしたちとまったく違う世界の切り取り方をする。

「行かない」というフレーズで例をひとつ。英語にしても日本語にしても、「行く」という動詞に「〜しない」という打ち消しの助動詞が付属する。この付属の仕方には、それらの言語が音で表現される以上、時間的制約が設けられてしまう。つまり「〜しない」は「行く」の前か後か、どちらかでしか表現できない。一方で、手話語の「行かない」は、「行く」動きと「〜しない」動きを、“同時に”行う。彼らの「行かない」は、わたしたちの言語が束縛されている時間というものから自由なのだ。

こうした言語から生まれる思考は、わたしたちの思考とは根本的に異なるだろう。それがなんなのか、わたしはすごく知りたいと思うし、翻ってわたしたちのものの見方には、彼らのそれとは異なるどんな特徴があるのだろうと考えてしまう。


ひところ『翻訳できない世界のことば』という本が話題になったが、こうした「通じない言語」のあり方は、わたしをとても興奮させる。それはときに人々の分断を招きながらも、世界を面白くしている大きな要因に違いないからだ。

そんな世界の面白さを子どもたちに見せるのが教育の役割であって、スキルの向上はあとから勝手についてくるものだと思う。そうしたスキルが活かされるであろう「現代のビジネス社会で活躍すること」は、それこそLifeの一側面に過ぎない。これまた今の教育のキラーワードになっている「21世紀型スキル」が、単に“仕事”を意識したものになってしまわないよう、学校が「就職予備校」に陥らないよう、心の底から願ってやまない。

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