シャッターチャンスの見分け方

azusa yamamoto
book list of the future
3 min readMay 14, 2017

「自然は芸術を模倣する」とはよく言ったもので、わたしたちは作られたイメージの中でしか世界を認識できない。

写真を撮るときもまさにそうで、見覚えのある美しさを「絵になる」と思い込んでしまう(「絵になる」のではなく「そういう絵を見たことがある」のだ)。観光スポット、話題のスイーツ、自分的素敵ライフスタイル……そんな「ほかの人も撮りそう」な写真ばかりが今日もカメラロールに増えていく。

それをくだらないと言い切れるなら(わたしは100%そうだとは思えないんだけど、後述)、どんなものが正しいシャッターチャンスといえるだろう。これは暫定的なシャッターチャンスの見分け方。

ひとつは、撮りたいと思ったものに対して二文以上の言葉が出てくること。言葉があるというのはそこに思考があることの表れだから、思考がある限り自分だけの「見方」ができているはず。たとえ誰かのとよく似たものになったとしても、その写真は自分だけのものなんじゃないだろうか。

言葉の補足的イメージとしての写真。

もうひとつは、それを見たときに一言も言葉が出ないこと。言葉が出てくるその前に、ただその空気を光を「残しておきたい」と思うとき。それはたぶん、愛を感じるときだ。言いようのないほど美しい光景に心を揺さぶられたとき、人と共有する親密な時間、そんなときに自分の言葉/思考をことさら意識する必要はない。どう頑張っても、そこには自分にしか撮れないものがある。

純粋な表現手段としての写真。

そう考えると、たった一言しか言葉の生まれない写真は無意味だ。これを見た、あそこに行った、それを食べた、誰に会った……。

一方で、写真にはまた別の側面もある。

今日では、スマートフォンについているアプリによる「(インターネットに)つながっているカメラ」のおかげで、写真は人と“会話”をするために撮られている

スナップチャット創業者のこの言葉にあるように、発しては消える(ときに人の記憶には残る)他者との対話手段としての写真。写真を撮るその瞬間に、わたしたちはそれを伝えたい相手のことをもう考え始めている。これを見た、あそこに行った、それを食べた、誰に会った……。

すべての会話がずっと残ってしまうとしたら、それはまったく意味のないことだと思う(しかも気味が悪い)。でも写真は残ってしまう。他人に伝えるためだけに日々生まれる写真たちが、常にスマホの容量を圧迫し続ける。いらないものたちが、とっておく必要のないものたちが、気にしなくてもなんら支障はないのだけれど(いまやクラウドという魔法を手に入れているのだし)、増殖していくことへのかすかな不安。それってなんだろう。

授業中に机の下で渡しあった手紙のように、誰かの手に渡ればそのあとは消えてなくなってしまうかもしれないような不確かさの中に、人に何かを伝えることの救いがあるのかもしれない。それだけ、人に何かを伝えるというのは(わたしにとって)勇気がいることなのだ。

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