【書評】あなたの知らない脳(デイヴィッド・イーグルマン)

思っているほど、「わたし」は、自分をコントロールできてはいない。

倉下 忠憲
bookblog
7 min readSep 14, 2016

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氷山の一角、という言葉があるが、「わたし」という意識はまさにそれと同じである。

ややもすると「わたし」は自分の中心であるような気がしてくるが、実際は地下の工場から上がってくる報告を聞いて、「へぇ〜そうなんだ」と頷くだけの中間管理職である。ときどき悪さをして、「これって、俺の手柄だよね」と主張したりもする。

本書は、脳が世界を知覚するメカニズムを説き明かしながら、「意識」の役割を再定義し、その上で新しい刑罰の制度にまで言及している。非常に興味深い。

概要

目次は以下の通り。

第1章 僕の頭のなかに誰かがいる、でもそれは僕じゃない
第2章 五感の証言―経験とは本当はどんなふうなのか
第3章 脳と心の隙間に注意
第4章 考えられる考えの種類
第5章 脳はライバルからなるチーム
第6章 非難に値するかどうかを問うことが、なぜ的はずれなのか
第7章 君主制後の世界

第1章から第4章までは脳がいかに世界を捉えているかという話で、ポイントは脳は受動的な存在ではない、という点にある。光を受信したら、それに対応する光を「見る」といったことではなく、もっと能動的に世界を推論し、シミュレーションしている。その結果と、外部からの刺激をうまく整合させて、私たちの知覚は創造されているのだ。

そして、そうしたメカニズムに「わたし」(という意識)はほとんど関与も参画もしていない。そういうメカニズムが働いていることを一切気にすることなく「わたし」は王様のような振る舞いをしているのだ。この手のお話は脳神経学や心理学ではごく一般的で、『<わたし>は脳に操られているのか』や『意識はいつ生まれのか』あたりでも類似の話が紹介されている。V・S・ラマチャンドランや、オリバー・サックスの著作も合わせて読むと面白い。

さらに第五章では、そうしたバックグラウンドで発生しているメカニズムが複数あり、競合していることを提示する。ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』では、わかりやすく二つのシステム(システム1、システム2)に代表されていたが、実際はもっと多様な切り口がありうるだろう。どちらにせよ、単一の反応ではなく、複数の反応の可能性があり、そのうちのどれかが一つ選ばれる(勝つ)ことによって表面に出てくる、という考え方だ。著者はこれを政党のようなものだと表現している。わかりやすいたとえだ。

著者は続く第6章で、かなり踏み込んだ提言をしている。私が一番興味深く読み、一番反論したくなったのもこの章である。

社会適応トレーニング

著者は、「自由意志」なるものは存在しないか、存在しても因子として小さすぎてたいした影響はないと言う。その場合、行為者に対して行為の「責任」を問うことは難しくなる。行動が選べないような状況では、責任は発生しようがないからだ。しかし、著者は別に犯罪者を牢獄から解放しようと意図しているわけではない。単に犯罪を「非難に値するかどうか」という基準から裁定するのを止めるべきだ、と述べているだけだ。

自由意志が存在しないか、存在してもたいして力がない状況であれば、言い換えれば脳の状態によって人の行動がほとんど決まってしまうのであれば、著者の主張はすんなりと飲み込める。むしろまっとうな話に聞こえる。

私が言いたいのは、どんな場合も犯罪者は、ほかの行動をとることができなかったものとして扱われるべきである、ということだ。

こういう物の見方は、おそらく社会に寛容性をもたらすだろう。たしかに、非常に追い詰められた人や環境的に劣悪な状態にいる人は、そうでない人よりもはるかに犯罪を犯しやすい。ノーマルな状態から見れば、「そんなことやりっこない。やるやつは悪意があるからだ」と思ってしまうが、人は簡単に道を踏み外すものなのだ。周りが暗闇であれば。

だからといって「どんな場合も」とまで言えるのかは私にはわからない。少なくとも私は自由意志の存在を否定しきれていないので、より強くそう思う。

が、それ以上に気に掛かるのは、そのような犯罪者の「非選択性」を認めた上での、対処方法である。

市民の社会復帰を助けるために目指すべき倫理にかなった目標は、本人をできるだけ変えずに、その行動が社会のニーズに合うようにすることだ。

非常に素晴らしい理念に聞こえる。著者は、そのためのリアルタイム・フィードバックによる行動改善の方法も提唱している。人間にさまざまな衝動や欲求が発生することそのものは止めようがない。しかし、それを抑止するための力を増強させることはできるかもしれない。政党のたとえで言えば、きちんとした国会運営ができるように法律を変えたり議員を訓練したりするわけだ。

しごくもっとものように思える。しかしこれは、パターナリズムではないだろうか。一見そんな風には見えないが、実際はこれは個人に強いメッセージを発している。「社会に適応する人になりなさい。でなければ、私たちはあなたを認めません」。PSYCHO-PASS的世界である。

著者が提唱しているのはリアルタイム・フィードバックによるトレーニングだが、もし「社会適応できるようになる薬」が開発されたらどうなるのであろうか。あるいは脳に埋め込むナノマシンだったらどうか。それは男性にポルノ欲求を強いた脳腫瘍と何が違うのだろうか。それがある種の犯罪を犯した「対処」として(つまり刑罰ですらない)施されるのである。そこにおぞましさはないのだろうか。

そもそもなぜ人は、人を罰するのか。共同体を守るためであろう。「ルールを破るやつは、この共同体にはいらない」__社会的秩序とは概ねそのようなものである。それは世界における真なる善によって裁定されているわけはない。その社会のルールに合致する人と、そうでない人を線引きしているだけなのだ。だから、その所行は基本的には傲慢なものである。

人に罰を課すという行為について考える場合、私たちはその行為が持つ傲慢性について常に頭に止めておくべきではないだろうか。「社会をよくすること」ことが「社会がよいと思う人だけを認める」「社会がよいと思う人を意図的に作り出す」となってしまうのが、本当によいと言えるのかは__多様性がもつ強靱性(ロバスト)も考慮して__、足を止めて熟考したい。

さいごに

ともあれ、脳の状態によって「やむにやまれぬ犯罪をしてしまう」ことが、想像以上にあり得ることを認識した方が良い、という著者の主張は非常に頷ける。主体的意志は強いコントロール主ではないのだ。

その視点は、他人や自分を「理解」する上で大いに役立ってくれるだろう。本書はそうした知見を非常にわかりやすくまとめてくれている。

Originally published at rashita.net on September 14, 2016.

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倉下 忠憲
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物書きです。R-styleというブログを運営しています。ビジネス、経済、政治、投資、為替、麻雀、アニメ、ゲーム、ガンダム、iPhone、ライフハックなどに反応しやすい性質をもっています。