akionoguchi
Brilleaux
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4 min readMay 6, 2017

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2017/05/04 久しぶりに花湯祭りを観た

夕方、家族三人で三朝の実家に帰省した。孫の顔見せがてら、ということで最低月に一度くらいは、という感じで戻ったりしている。

今夜はご馳走だよ、と出てきた刺身盛り。三朝では毎年この季節に花湯祭りがある。夕食を始めた頃には夜の7時、8時には花火が上がるので割と急ぎ足で夕飯を食べて祖母と4人で表へ出た。1歳半の息子は初めての花火、完全に呆気にとられた表情で夜空に上がる花火を見ている(けれど、母親の服を掴む手は固く握りしめられていた)。花火は非常にコンパクトに、かつ昔よりも緩急良い感じにまとめられていて美しかった。フィニッシュの後に自然と観客から上がった歓声はいつもよりも、よくやったぞ、と皆が言ってるように聞こえた。

花湯祭りのメインイベントは花火ではなく、その後にある「陣所」と呼ばれる大綱引きである。周辺の山から採ってきた藤葛のつるを編んで作った80メートル、2トンの綱を温泉街の中に引き入れて東西で引き合う。東が勝てば豊作で西が勝てば商売繁盛という「それどっちが勝ってもいいことありますやんか」という感じや、町の人間も観光客も皆一緒になって引き合うのが勝負にこだわっているのかこだわっていないのかわからない感じで、なんともいい雰囲気なのだ。

昔に比べて随分細く短くなった、というのが今年の綱を見た時の最初の感想だった。温泉街の入口から綱の端までが随分遠くなった。一番太いはずの綱の中心さえ昔の綱の端っこくらいだ、とは祖母の弁である。なぜ綱が細く短くなるかといえば、綱を作るために働ける人が年々少なくなっているからであり、そんな風になることはずっと昔からみんなわかっていた。わかってはいたけれども、いざその細く短くなった綱を見ると、やはり寂しい気持ちになる。

ただ、その勝負の中心に向かうほどに、祭りの姿は僕が昔見ていた馴染みの様子だった。皆で息を合わせて綱を引く、それを見物客が写真撮影し、声を出して応援する。目の前に勝負事が現れた時にはいつだって皆、そんなふうに体が動いてしまうようにできているようだった。

細い綱を見たときは、この光景いつまであるんだろうかと思ったけれど、結論としては「なんかまあ人口7000人ほどのド田舎の温泉街の祭りなんだからみーんな年寄りばっかりになってくし綱が細く短くなって迫力ないとか言われちゃってもそもそも仕方ないわどこの地域だってこんなもんだよね」という気持ち(を仮に担い手が持ってしまったとしても、それ)を感じさせない、ということに尽きるのだろうなあと思った。勝負事の迫力は、例えば80メートルのうちたった30メートルくらいにしか宿らなかったとしても、その30メートルの光景だけは本物なのだとその日それを目撃した人たちに感じさせること。あらゆるものが細分化されて細く短くなっていく時代に、果たして真に迫ることをやっているか、それに尽きるなあと身も蓋もない結論に達してしまった。その点僕は、このお祭りの中心部にはまだそれが残っている気がして、落ちた気分もちょっとだけアガった。

陣所の綱引きのコツはその休み方にある。
何度か声を合わせて綱を引いたら、すぐに皆で綱の上に座って体重をかけて、相手方が綱を容易に引けないようにしながら休むのだ。それでも勝負の終盤には、当然雌雄を決する時が来る。あらあ〜、とか言いながら、綱の上に座ったまま引っ張られて行く人達の姿、そのどうしようもない感じもまた面白いものだ。今年は西が勝った。

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