人間と機械が生む感動の違い

人は誰しも不完全(と自分が思える)ものを愛おしく感じるセンスを持っており、それは子どもや弱者を慈しんで共生していくためには欠かせない感情です。詳しい事情やデータを知っているわけではありませんが、少なくとも僕はそういうものだと肌で感じています。

つまり、人は不完全であることを自覚し他者へと発信していくことで社会に受け入れられ、自分もまた他者が不完全な人間であることを知ることで、その人と芯のあるコミュニケーションができるようになるのです。

大昔に僕は出木杉くんが劇場版にも出演できなければ友達もいない理由というお題でブログを書いた覚えがありますが、その時も同じような話を書いた気がします。

社会は人が支え合って成立する以上、互いに不完全であることを認識していなければ「支え合い」は成立しません。出木杉くんにのような1人で完全体のように見える人物は、誰にも彼のどこを支えればいいのか分からない、いわば機械のような冷たさがつねにつきまとうからです。

完全体に人が寄り付かないということは、完全体からはドラマが生まれないということでもあります。

ドラマは人と人とが関わり合うことで産まれますが、関わり合うためには誰にでもわかる不完全さが必要です。のび太やドラえもんがいつまでもみんなのヒーローであり、映画の主人公でいられるのは、彼らが誰の目からも見てダメなところもあれば、良いところもある「人間臭さ」を常に醸し出しているからと言えるでしょう。

このことから、機械と人間の違いは完全か不完全かという点に見出すこともできます。

機械は常にパーフェクトであることに人の心を動かしますが、人が人の心を動かすときは、人間臭さとい不完全さが見え隠れしたときです。

加えてここで生じている心の動き方にも違いがあって、機械の産む感動とは一歩下がった見上げるような感動である一方、ラブストーリーやヒューマンドラマの生む感動はより親近感のある、芯に迫った感動であるように僕は思います。これはいわゆる愛に近いものもあるかもしれません。

感動や愛を生む人間臭さとは、という話をすると長くなるので今回は省きますが、僕が言いたいのは機械と人間の産む感動の質は別物と考えるのが妥当であり、同じ感動を両者に求めてはいけないということです。

機械には機械にしかできないこと、人間には人間しかできないことがあるものなのです。

加えて、人が支え合って生きていくためには、お互いに自分の弱みを見せられるようなコミュニケーションの場も設けなければいけないということでもあります。

インターネットやSNSの普及により、人と人との距離がより近づいたとは言いますが、最近はインターネットのせいでお互いが遠ざかっているような気がしてならないのです。

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