判断は「分ける」作業であり、決断は「捨てる」作業である
こないだ友人から興味深い話を聞いてきました。
彼女が言っていたのは、判断することと決断することは全く別であるという話で、判断はできるけど決断できる人はなかなかいないよね、偉いよねという話題でその日は盛り上がっていました。
なぜ決断できる人は偉いのかというと、決断には責任と犠牲を負う覚悟が伴い、その潔さがカッコいいからです。
決断できるとはトレードオフを受け入れられることであり、自分の選んだ道に覚悟を決められることであり、
犠牲を顧みないその姿勢に、大人としての毅然とした態度を感じずにはいられないわけです。
大人のかっこよさとは、決断ができることにあるのでしょう。
一方で判断には決断ほどの重みはありません。判断は決断のような身を伴うアクションとは異なり、頭の中で整理することを指しています。
判断は脳内で物事に分別をつけるだけの作業のため、自分の意思はその中で大した意味を持ちません。
そのため判断は仕事に置き換えるとアルバイト程度の価値しか見いだせず、そこに自己責任の言葉もないわけです。
責任もなければ、自信にも自由にも繋がらない振る舞いが判断なのです。
一方で決断となれば話は別。途端にそのアクションには大きな責任が伴ってきます。
判断に結果は生じませんが、決断には結果が生じます。そして結果とは何かを犠牲にした証であり、
それを得るためには時間なりお金なり、人望なりと、何か自分の大切なものを捨てる必要が出てくるわけです。
加えてそれは、必ずしも自分にとって口当たりの良い結果が返ってくるとは限らない、不確定要素に満ちた領域です。一つのギャンブルといっても過言ではないでしょう。
結果は誰にも予測することはできません。だからこそ責任を取るべきは決断を下した本人なのです。
決断とは自己責任の世界です。そのため、多くの人は決断することを避けようとします。
しかし決断を下したからと言って、必ずしも不幸が訪れるとは限りません。
決断したからにはそれなりのリターンは下した本人に返ってくるものですし、そもそも命まで取られるなんてこともないのです。
命を賭けた闇の世界に関わっている場合は例外かもしれませんが、それでもゼロ以下になるというのは一般的な世間ではあり得ない事態です。
決断には9割方何かしらのメリットが残ると考えておくのが正しいでしょう。
判断から得られるものは決断のための材料だけですが、決断は結果という報酬が得られる唯一の方法です。
幸せになりたいと願う人は、まずは決断するクセをつけてみると良いでしょう。あらゆる決定は自分の責任に委ねられるのだ、と意識してみるのです。
そうすると軽率な振る舞いは減り、なれてくるとリスクを伴うチャレンジにもトライできるようになるでしょう。
決断の連続は何かを「捨てる」ことにためらいを抱かせず、よりスマートに自分の幸福追求に専念していくことが可能になるライフスタイルを実現します。
そして決断による成功体験を確実にしていくためには、判断によって物事を「分ける」ことの重要性にも気付くことが欠かせません。
本来、判断と決断は二つで一つです。両者を連続的に組み合わせていくことで、ぼくたちの生活はより豊かになっていくのです。
幸福を掴むとは、すなわち自分で判断し、そして決断すること。
この2ステップを踏み出さない限り、ぼくたちはどっちつかずな暗いグレーのまま人生を終えてしまうことになるでしょう。

