無関心の「無」は必ずしもゼロを意味するとは限らない

twitter案件っぽいですが気づきの備忘録としてひとつ。

無関心、無頓着、無理解・・・「無」という漢字がつく言葉は多々ありますが、実は一般的に僕たちが使っている「無」のつく言葉って、必ずしもゼロを意味しているわけではない気がしています。

もちろん何かしらに対する否定的な感情を示す言葉であることには変わりありませんが、数値化した時に0を示すことははっきり言ってまれといってもいいでしょう。

例えば関心・無関心というキーワードに絞ったとします。

関心があるといえば60~100%肯定的な意味合いになりますが、関心がない=無関心という言葉は0%ではなく、だいたい10~40%のことを指すような気がします。

「どちらでもない」というものも無関心に入れるならば、50%の意味合いで使われることも少なくないでしょう。

というのも、0%の無関心というのはもはやその分野において全く未知である、あるいはあえて「無関心」を選んでいることがほとんどなんです。

よく使われるのは食に無関心、衣服に無関心、住まいに無関心といったところですが、これらの文句はあくまでも20~40%くらいにとどまっていることが多く、「こだわりはないが、人並みの関心はある」ことを一般的には意味しています。

これらに対して0%の無関心とはつまり、お腹が減ったら道端に落ちているものやゴミ箱から栄養になるものを見つけては食べ、服も同じようにその辺で拾ったものか、寒さや暑さを感じないように布で包まりながら生活することになります。

住まいへの0%の無関心となれば、家具もなければ下手をすると屋根すら存在しない生活をすることになります。

つまり何が言いたいかというと、一つは僕たちの関心というものは社会によってある程度バランスが保たれていて、かつあらかじめ割り振るスキルポイントの上限が決められているのではないかということです。

あちらに関心を持てば、こちらの関心は薄まるといった風に、人はどこかしらの分野にこだわりを持てば、別の相反するカテゴリにおいて、社会における平均値を大きく下回ることがあるのでは、という話です。

逆を言えば、何かをゼロに近づけるという行為もまた、別の何かにスキルポイントを割り振る余裕ができているということになるのではないでしょうか。

社会において0のアスペクトが見えた時は、決まってまた別のスキルや分野にエネルギーが割り振られているのです。

アーティストはクリエイティブな感性を養うために一般社会との協調性を犠牲にしますし、偏執的な科学者もまた、生活を犠牲にして偉大な発明を生んできたことが例としてあげられます。

そしてこのパラメータは先天的に割り振られている面がある一方で、自分の意思次第では後天的に割り振りをいじることができる、つまり得意分野や興味分野を意図的に伸ばすチャンスはいくらでもあるということも覚えておくべきでしょう。

社会は基本的にトレードオフを許さないため、十人並を僕たちに熱望しますが、それをかいくぐった先には自由自在に運命を操れる自分がいるような気がしてなりません。

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