「じかん」と「しあわせ」の関係性

Shunsuke Mori
chunkeke-nikki
Published in
6 min readDec 6, 2015

時間は有限である。
日々を生きていると、そんなことをふと耳にする。確かにそうだ。人間には、長く生きれたとして、約80年程度が一人一人に与えられ、生まれた瞬間から死へのカウントダウンが始まる。僕は、21である。あと、60年ちょっとだ。もちろん、途中で病に倒れるかもしれない、交通事故で不本意なかたちで命を落とすかもしれない。人生なにが起こるかわからない。とにもかくにも一人が生きることのできる時間は有限である。

では、「時間は有限だ」と、聞いて、みなさんはどう思うか問いたい。
まずい、急がなきゃ。一瞬を大切にしなきゃ。生き急がなきゃ。このように考えるか?それとも、有限だけど気にしない。なるようになる。あまり関係ない。と思うか?

こんなこと考えてもどうしようもない、くだらない。と思うかもしれない。しかし、人生において、時間について考えることは、これからの一生をいかに「しあわせ」に過ごすかを考えることにつながると考えている。

現代社会は、あまりにも時間という概念に縛られている。グローバル化における資本主義が地球規模の競争を生み出し、競争のために誰よりも早く、どんな状況にも早く対応できること、が求められることにより、時間の呪縛を引き起こしている。果たして、これが幸せにつながるのだろうか。人間は、一体どこに向かっているのだろうか。

話が少し外れるが、この「じかん」と「しあわせ」について考えるようになったのは、ミヒャエル・エンデ著 『モモ』という本を読んでからだ。

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この本では、貧乏ながらも、毎日想像を膨らませて友達と遊んだり、悩み事があったときに、近所の人々と相談をしあい、助け合って生きていた時代の描写と「時間どろぼう」の存在によって、その人々の住民の時間が奪われる=物語ではそれぞれの作業の効率化が図られることによって、お金持ちになるが、その代わりに一つの作業への思いや想像力、人々とのコミュニケーションがなくなっていく、という両方の様子を描写した物語である。

「じかん」とは、どのように使うべきなのか。非常に難しい。

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世界には、『モモ』で描かれているこの両方の側面が存在している。日本で働く人々は、後者の実態に近い。テクノロジーが発展し、一つの作業の効率化が進む。SNSで気軽に友達とコミュニケーションができる。モノはPCやスマホから買える。明日には届く。仕事では、電車を使い、毎日満員の電車に押しつぶされながら9時に出社する。5分遅延するだけで大騒ぎ。出張時には、新幹線で移動時間を短縮する。お昼にはコンビニやファストフードで済ませる。連絡しようと思えばすぐにでき、移動も、食事も思うがままにすぐできる。これからは、人工知能やVRでさらに効率化が図られる。しかし、時間が短縮されたからといって、その「余った時間を何に使うか」いうと、自分のためには使われない。大体は新たな労働に時間はあてられる。その分、お金はもらえるが、余計な時間は減っていく。やがて心身が疲弊し、マッサージなどのサービスを利用する。しかし、マッサージも決められた時間で終わる。1時間やそこらでリラックスして、また労働へと戻っていく。そして、祝日やゴールデンウィークなどの休暇を利用し、日本の労働者全員が一斉に海外旅行やディズニーランドへいく。とても混むから、これまた分刻みで計画する。楽しさは半減だ。これが今の社会だ。

一方、前者で描写されている世界もたくさんある。例えばカンボジア。カンボジアの地方は、金銭的に貧しい。教育も思うように受けられない。リソースがない分、やることも日本に比べれば少ない。そのため時間はゆっくり流れている。そこに住む人々は、忙しいというが、日本の忙しさとは比にならない。様々な制約はあるが、そのなかで最大限に想像力を膨らませて、今の状況でなにができるか、ワクワクしながら考える。制約があるからこそ、地域のみんなで助け合いながら、愛を感じながら日々を生きている。

一体、どちらの生活が「しあわせ」と言えるのだろうか。

幸せの定義は個々人の認識によって捉え方は違う。でも、考えてみてほしい。あなたは、あなたの人生をどう生きたいのか。

分刻みで、一分一秒をいかに効率良く生きるかを求めていくべきなのか。
それとも、時間にとらわれずに、自分の愛する人たちとの関係を大切にするのか。どちらが結果的に「しあわせ」だったと言えるのだろうか。

僕は、死ぬ時「あぁ人生は幸せだった」と感じたい。
そのように感じるのは、どんな時なのか。おそらくそこにいる家族や友人や今まで支えてくれた人を思って、幸せと認識し、この世に別れを告げるだろう。一瞬一瞬を効率的に生きることができた。時間を無駄にはしなかった。ということから幸せだったと感じて死ぬことはあまりないように思える。

であるならば、なぜ僕たちは、時間を短縮しようと思うのだろう。人とのつながりや愛情を削ってまで、なぜ時間にこだわるのか。

時間が短縮すれば、その時間を他に使えるから。そして、お金がたくさんもらえれば、幸せだから。この認識はあっているだろうか。今の日本人は世界的に見れば裕福である。しかし、僕らは果たして幸せだろうか。

家族でどれだけみんなと顔を合わせて食事ができているか。旅行に行けているか。コミュニケーションが取れているか。助け合っているか。

社会という化け物のなかで、僕たちは奴隷なのだ。もう誰にも抜けられない。一人が欠ければ、社会の歯車は狂う。早くやらないと、期限に間に合わせないと、いたるところに迷惑がかかる。急げ、遅れるな。休むな。効率的にやれ。無駄な話はするな。そんな毎日だ。僕もこの社会からは逃れることはできない。

僕にできることは、「時間」について知ること。向き合うこと。そうすれば、違った世界が見えてくる。生き方が少し見えてくる。自分は、どうあるべきなのかが見えてくる。

僕は、たった一つの尊い人生を「しあわせ」に生きたい。
そのために「じかん」とどう向き合っていくのか、じっくりと考えながら歩んでいきたい。

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Shunsuke Mori
chunkeke-nikki

Joyz Inc. Product Sales Manager/ Sophia Univ./givery Inc. Web Marketing and Sales/Rarejob CS&English counselor/EDUCA co-founder