サッカーが生み出す民族意識とアイデンティティ
サッカーはスポーツの枠組みを超えた存在である。
今日のイベント(清義明×速水健朗「スポーツ、文化、ナショナリズム — — 『サッカーと愛国』から考える現代社会」)を通じて感じた。サッカーは単なるスポーツではなく、そこから生まれる民族意識やアイデンティティが人類を存続させるうえでの重要なファクターであるかのようにも思える。
まずはじめに、サッカーがどのようにして民族意識を生み出すのかを考えてみたい。簡単な例として、世界各国の代表選手がしのぎを削るワールドカップを挙げる。ワールドカップ期間中は、誰もが自国の選手を応援し、国家が一丸となって他国を敵対視する。近年日本でも渋谷のスクランブル交差点で見知らぬ人とハイタッチをする姿も多く見られるようになった。この光景は、普段から見られるものではなく、サッカーを通じた民族意識が促したものである。サッカーを通して、自分は日本人だ、と認識し、日本人である他者を同類と認め、民族意識を持つのである。
また、ナショナリズムとしての概念だけでなく、さらにミクロな単位でも発生する。イベント中で取り上げられたのは、クラブ単位としての民族意識。スコットランドリーグのライバル関係にあるセルティックとレンジャーズは、元々はカトリック派とプロテスタント派から成るチームである。このように、元は別のコミュニティの対立関係からサッカークラブへと土俵が変わるものもあれば、逆も然りである。かつて鹿島で活躍した鈴木隆之選手が所属していた、セルビアのクラブチームのレッドスター・ベオグラードは、元々はレッドスターの熱狂的なファンが内戦の際に銃を身につけて武装し、全く同じコミュニティのまま突撃する例もある。
一方で、サッカーがあることによって新しくできる民族意識もある。日本でいえば、浦和レッズのファンが挙げられる。浦和レッズは日本有数の熱狂的ファンがいるが、レッズファンの半数以上は、浦和在住の人ではない。しかし、レッズを応援するというたった一つの共通点だけで、サポーターがお互いにレッズが好きだという民族と認識し、集団を形成する。そのため、Jリーグの試合の場合、日本人という同じ民族であるにも関わらず、今度はクラブとしての民族意識が対立関係を生み出す。
ただし、民族意識というのは、物理的なものではなく、あくまで創造的集団であり、得体はない。そのため、ファン一人一人によって民族意識に乖離が生じる。例えば、イベント中でも取り上げられたが、李忠成選手と鄭大世選手。浦和レッズに所属する李忠成選手は、韓国国籍を持っていたが、2007年に日本人に帰化した。日本代表にも選出され、アジアカップ決勝で見せたボレーはまだ記憶にも新しい。鄭大世選手に限っては、在日3世として名古屋で生まれたが、国籍は韓国国籍を持っている。その上、代表は北朝鮮代表として出場していた。彼らのような選手は、自分は一体どこに所属し、自分のアイデンティティは何かを日頃から考えていたと言っていた。それは、ファンも同じである。ファンにとって、李忠成選手や鄭大世選手はJリーグチームの一選手であるからチームとしては応援する一方で、日本人というコミュニティには属していない。外交的には日韓というデリケートな関係でもある。これを許容するか、しないかは個々人の意識によって異なる。そのため、ファンによっては同じチームの選手であっても、罵倒や批判、差別的発言をすることもあるそうだ。
先日の川崎フロンターレサポーターが旭日旗を掲げたことやレッズの森脇選手が鹿島のシルバ選手に暴言をはいたことなどが大きく取り上げられるのも、背景には様々な民族意識が交錯した中で、問題視されていることである。
サッカーはボールを足で扱い、11人のプレーヤー同士が試合をし、勝ち負けを決める競技であるが、それだけでは到底留まらない。時にナショナリズムを生み出し、時に民族意識を生み出し、また時には政治的関与や宗教的関与などが関わってくる。最近話題の著書ホモ・サピエンス全史では、ホモ・サピエンスがネアンデルタール人や他のヒト科より優れ、今日まで存続できた理由は、互いに同じような幻想を抱き、集団を形成することだと述べられている。現代において、幻想を創り出すものの一つが、サッカーであると考える。これらを考慮すると、サッカーがスポーツという枠組みを超越した存在であることを示しているのではないだろうか。