学習することは苦しいが、それが正しい。

Shunsuke Mori
chunkeke-nikki
Published in
7 min readMay 17, 2019

久しぶりのエントリーですが、1年くらい更新ができていませんでした。私のブログは、日常の気づいたことや価値観について述べると決めているのですが、それについて更新できなかった理由は以下の要因が挙げられるなと思っています。(こちらはタイトルとは関係がないです)

  • 教育業界に足を結構踏み込むとすごい人がたくさんいて、自分の浅はかな考えを記して、シェアするなんて恐れ多い
  • ある程度業界知識が入ったことにより、固定観念が形成されつつある

こんな感じで、私が英語教育業界・文教業界に足を踏み入れてから2年くらいが経とうとしています。それくらいの期間いると、ある程度の業界知識は嫌でも入ってきます。しかし、知れば知るほど、業界の奥深さに気づき、自分の意見というのは自己抑制しがちになります。というのも、基本的にどの業界にもすごい人はたくさんいて、その人が日々思慮深い発信しているのを見ると、自分の無知さを痛感します。一方で、知らないわけではないので、新鮮さも薄れ、”まあそうだよね”、”わかるわかる”、と共感が多くなる一方で、新しい発見もしづらくなっていきます。

というわけで、小さな気づきはたくさんあるけれども、それをなかなか発信できていない、またそれすらも段々と気づかなくなっている自分がいました。これが理由です。しかし、これでは前には進めません。自分なりの考えをぶつけなければ、思考を深めることはできません。結果、また更新していき、考えをアウトプットしていこうと思いました。

前置きが長くなってしまいましたが、今日は学習に痛みを伴うことはつきものだが、それこそが学びの本質であるということについて、記していきます。

「楽に学べますよ」、「これがあればすぐにマスターできる」、という風潮について

最近の傾向ですが、書店での書籍の並びや流行りのIT教育サービス・アプリなどを覗いてみると、「〇〇日で完全攻略!」や「最短でマスター」、「気軽にサクッと」のように、”楽に”、”簡単に”、”すぐに”という3本柱を謳い文句にしたものが非常に多いです。弊社が開発しているサービスについても、お客さんから、ゲーミフィケーションにしたらいいとか、今の時代は楽しく学べるといいよね、といったフィードバックをよくもらいます。

しかし、サービス提供者側からすると、そこには大きなジレンマがあります。例えば、弊社はAIの技術を活用した英会話サービスを提供していますが、AIの領域を学習に応用すると、正確な評価に基づいてアダプティブな学びを実現する、ということがゴールなのですが、正確な評価であるがゆえに、学習者には大きな痛みを伴います。

想像してみてください。対人で指導の場合、学習者が何かを間違えた時に、どのようにしてアドバイスしますか?小学校1年生と高校3年生では、アドバイスの仕方は変わるでしょうか。当然、言い回しも、励まし方も変わります。

一方で、機械による評価は、ドラスティックなものです。一律ですし、これは30点、これは73点と容赦無く出ます。それが機械の良いところであるといえます。むしろ、捻じ曲げてしまえば、精度が疑われます。もちろん、年齢によって、評価の粒度を微調整することも可能ではあります。簡単に言えば、評価を緩くして、落胆させないようにするといった措置です。

しかし、どちらの方が学習効果を上げるということを考えた時に、望ましいと言えるでしょうか。ここに大きなジレンマが生じるわけです。

優しく指導するべきか、厳しく指導するべきか

学習者に対して、どのようなスタンスで指導すればいいのか。上述したように、これは常に悩ましい問題です。

英語学習はよく、筋トレと似ていると言われます。肝は、継続のための、モチベーションです。3日坊主で終わるよりも、1年続けた方が結果的には効果があります。皆さんも一度は英語学習か筋トレで同じような経験をされたことはあるのではないでしょうか。

しかし、1年間ゆるーく続けているのでは、効果はあるとは言え、3日坊主と大差ない場合もあります。よくオンライン英会話や英会話教室でも、通い続けて3年になるけど、上達を実感できないといった声もよく聞きます。なぜ実感できないのか、それは痛みを伴わないからです。

英語に関して、上達を実感するには、以下の3点が必要だと考えます。

  • 継続して続けること
  • 地道な作業ができること
  • 自分の苦手なところに対し、根気よく立ち向かえること

どんな学習メソッドや学習習慣であっても、何かを習得するには、この3点がとても重要です。大前提として、先述したように継続することがあります。そして、継続する過程で、いかに痛みに耐えられるか、が効果の高低を決めます。例えば、お腹を割りたいと思っている人がいて、そのために、毎日3回の腹筋を1年間続ける。これでは、多少効果はあるでしょうが、1年後にお腹が割れているかは懐疑的です。

しかし、痛みが伴えば、当然、モチベーションが低下してしまい、継続が困難になります。繰り返しますが、あくまで継続が学習効果を持たせる大前提となりますので、どこまでの痛みまでであれば、耐えられるのか、そのギリギリのところを見つけるといいのではないかと思います。腹筋を10回なら続けられるか、50回なら行けるか、もしくは1000回での行けるのか。

話を学習に戻しますが、優しく指導すべきか、厳しく指導すべきか、という問いにに対しては、その学習者の特性、つまりどんなゴール設定をしているのか、また、その教科は好きなのか、嫌いなのかによって、痛みに対する感度は変わるはずです。

個人最適な時代だからこそ、そこに甘んじてしまうことを危惧するべき

最後になりますが、冒頭で述べたように、現代社会は個人最適の時代です。このような時代を生きる私たちにとって、「より心地いい」「気持ちいい」ことに慣れてしまっています。つまり、痛みに対する耐性が弱まっているのです。

学習に関しても、アダプティブラーニングが普及しているように、学習者に合わせて、難易度や学習の設計が変わっていきます。今後はより精度が上がっていくでしょう。

しかし、サービスに対して全幅の信頼を寄せてしまうことは危険です。それでは、一向に人間としての知識や能力は向上しない可能性があります。永遠に快楽だけを求めて、思考を停止してしまえば、単なる”楽しさ”や”やった感”で終わってしまいます。

学習において、具体的に述べると、上の図で表したように、自分の学習スタイルは、モチベーションと学習の強度で決まりますが、現代はこれがAIやICTを導入することで、自分の学習スタイルが自動的に決定される傾向にあります。一方で、サービス供給者側の立場からすると、痛みを伴う、サービス設計がされていればいいのですが、当然学習者からは、快楽を求めているので、開発者へのフィードバックは、ゲーミフィケーションや緩さを要求します。

本当に身になる学習のあり方は何か。

それは、やはり多少なりとも痛みの伴うことです。しかし、継続するためのギリギリなラインの痛みを伴う学習のあり方が一番の理想と言えます。

上の図のように、モチベーションの線を徐々に上にあげ、より多くの人が、学習の強度も上げるが、モチベーションを失わない仕組みを作り上げる必要があります。

その観点を見失わずに、日々教育に携わる方は、より良い社会を目指して努めていくことが必要なのだと思います。

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Shunsuke Mori
chunkeke-nikki

Joyz Inc. Product Sales Manager/ Sophia Univ./givery Inc. Web Marketing and Sales/Rarejob CS&English counselor/EDUCA co-founder