教育業界はブルーオーシャンだ

Shunsuke Mori
chunkeke-nikki
Published in
7 min readJun 26, 2019

私は、教育業界に足を踏み入れて5年くらいが経とうとしています。が、携わり始めた当時は大学生だったので、ある意味学生時代を含めると幼稚園児から、今まで23年くらいは教育に何らかの立場として携わっていると言っても過言ではないかもしれません。私は、千葉の公立小学校、中学校、そしてベルギーのインター中高、東京の国立高校、東京の私立大学を経験しました。簡単に、この23年を振り返ると日本の教育システムは、マクロ的に見ると全く」と言っていいほど変わっていないなと思います。だって、みなさんが学校とか教育をイメージした時に、頭の中にパッと浮かび上がる光景はありますよね。教室があって、机があって、黒板があって、先生がいて、生徒がいる。授業があって、放課後があって、部活がある。その光景は、今日でも大きく変わりがありません。

そうすると色々と錯覚するわけです。親も子も錯覚するわけです。

高学歴、良い大学、良い就職先をひたすらに目指し続ければ良い。反対に、そこに漏れてしまったならば、この先の人生は失敗だ。もう後戻りはできない、と。

しかし、社会は劇的に変わっています。23年前をみてみると、ディズニーランド東京のトゥーンタウンのオープン、Yahoo! Japanのサービス開始などがあります。携帯電話はアンテナ付き。window95が発売されたものの、まだまだ一家に一台パソコンがある、各家庭にWifiがあるなんて程遠い社会です。今では考えられないような世界がそこにありました。

https://time-space.kddi.com/digicul-column/bunka/20160502/

あれから23年が経過し、スマートフォンというポータブルのインターネットをどこでも持ち運べる今、社会が本質的に求めているのは、上述した学歴や職歴のようなものではありません。確かに、高学歴、良い大学、良い就職先というルートが間違いだとは思いません。社会を生きる上で、名刺的な観点で一定の役割を果たす面で非常に重要ではあります。しかし、あくまで名刺でしかありません。結局良い企業に就職したって、そこで自分のバリューをどう発揮できるかが、グローバル社会において、一番重要になるわけです。アメリカでいくら日本の良い大学、良い就職先を語っても、ほとんど理解されません。

そのように考えると、教育業界はあの23年前の形で良いのか。そんなわけないことは誰にでもお分りいただけるはずです。

前置きが長くなりましたが、一般的に教育業界はレッドオーシャンだ、新規企業が入りにくい業界だ、と言われています。レッドオーシャンと言われる理由は、ある意味「完成された場所がそこにある」からだと思っています。

確かにこの業界に携われば携わるほどに、学校という場所は、Holy landのように見えてきます。セキュリティの観点から、校内に入ることも難しい。先生は授業や生徒指導、部活動、会議で忙しいため、新しい風を吹き込むための仕込みができない。私自身はあくまで企業側の人間で外からでしか学校を見ることができないのですが、だからこそ、とても異常な空間であることを感じます。

「生徒の将来のため、今の生徒の困っていることを解決するため」

朝の7時には学校に来て、場合によっては21時、22時近くまで働く。私は、日本の先生は本当にすごいと思います。私が通っていた、ベルギーの学校の先生は、生徒と一緒に16時には下校していました。笑

社会と切り離された環境で、利害関係が発生しない、ガラパゴス化した場所。その閉ざされた枠の中で、日々我々教育関係の業者は、どうにかそのパイを取っていこうと競います。それがレッドオーシャンと言われている理由です。

しかし、近年、文科省も社会の変化に対し、教育業界にも順応した形を反映させようとすべく、「主体的・対話的・深い学び」の実現に向けて少しずつ動き始めています。しかし、現場レベルまでにしっかりと浸透するまでには5~10年のタイムラインが必要でしょう。我々のようなスタートアップがこの業界に少しずつ参入できているのも、この流れがあるからです。

教育業界はブルーオーシャンだ

なかなか挑戦的なタイトルにしていますが、ホリエモンこと堀江さんがインタビューやNewspickでも言っていたことです。(例:今の「常識」はフィクションでしかない!) これは考え方によって本当にそうだなと思っています。上述したように現代社会が求められるスキルや価値観、人間性は、従来型の教育システムでは合わないところがあまりにも多すぎる。

動画でいくらでも情報が手に入る時代で、紙の教科書を全員が買うこと、学校に毎日足を運ぶ必要性、各教科に分ける必要性、集団授業である必要性、定期テストの実施、先生が1授業に対して1人である必要性。当たり前のように毎年行われていることに対し、なぜやるか、と考えると、意外に答えはそこにありません。明治から昭和にかけてはそのような教育に意味を見出していたけれども、いつの間にか「前からそうだった」から、と思考停止した体制になっているところが多々見受けられます。大人の都合が多すぎる。

私を含めて教育業界に携わる人間は、日本の将来を背負っていると言っても過言ではないと思います。それだけ生徒の未来に寄り添ってあげること、彼ら中心に業界全体が流れていかなければなりません。(もちろん理想論を述べているので、いろんな理由でできない部分もあるのはわかります。ただ、どこまで言っても繰り返しますが、大人の都合なんですよね。)

これから教育業界は2020年の新テストや新学習指導要領、また内閣府が掲げているSociety 5.0に向かって激動の時代を迎えます。

これからの時代を創っていく小中高の世代にある生徒たちが本当に必要なことを学ぶシステムの形を想像すると、今とは全く異なった学校のカタチがそこにあると思います。ICTの活用、追求する力、能動的な学習、生涯学び続ける姿勢、協働、言語、批判的思考、などツラツラと必要になりそうなことを記載すればするほど、今の日本の教育システムに危機感を覚えます。

そう考えると、教育業界はブルーオーシャンだ、と言えるのではないでしょうか。

N高ゼロ高等学院Loochs、など新興学校が少しずつではありますが、台頭してきている中で、まだまだ現行の教育システムの型を完全には破りきれていない部分があるとは思います。それは制度的なところがボトルネックになっているかもしれないですし、コスト的な部分もあります。また、親の理解、先生の理解、生徒の理解などマーケットがそこまでついてきていないのも事実でしょう。

しかし、

「生徒の将来のため」

だけの一点を考えるのであれば、民間英語試験の導入是非とか、新テストがどうのこうのとか、点だけをフォーカスされがちですが、本来は成人までのロードマップから常に逆算された行動やシステムがそこに伴わなければならないのではないでしょうか。

彼らをよくも悪くも導けるのは、大人しかいないのだから。

もし、同じような考えを持った方、違う考えを持った方がいたらご意見を聞いてみたいです。あくまでこれは私の最近考えていることにすぎません。もう少し具体的な教育のあり方を別のエントリーで書いていこうと思います。

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Shunsuke Mori
chunkeke-nikki

Joyz Inc. Product Sales Manager/ Sophia Univ./givery Inc. Web Marketing and Sales/Rarejob CS&English counselor/EDUCA co-founder