熊本の地震、ベルギーのテロを外から見て思うこと

Shunsuke Mori
chunkeke-nikki
Published in
6 min readApr 18, 2016

天災、非人道的行為。一方は自然によるもので、もう片方は人間によるもの。こうした日々のニュースは、私たちを悲しませている。今に始まったことではない。ニュースを見れば、毎日のようにシリアで爆発が起こったり、熊本のほぼ裏側、エクアドルでも大地震が起こっている。毎日多くの人々が命を落とし、多くの人々が涙を流す。そんな被害者が多数いる中、私はどこか当事者意識を持ちきれない自分がいる。今日も余震の続く状況の報道を目の当たりにしても、どこか他人事のように思えてしまう。そんな自分に憤慨や残念な気持ちと、どのように日々起こるニュースに対して向き合うべきなのだろうかと考えてしまう。

「現地に行って支援活動をすればそれでいいのか。」
「遠い地にいたとしても、募金や支援の呼びかけをすればいいのか。」
「SNSで発信すればいいのか。」

http://www.line-tatsujin.com/detail/a00139.html

こうして、ブログに記している暇があったら何か自分のできることをやれ、と思う人がいるかもしれない。それも一理ある。関東に住む一人間が考える時間があったら、それより先に物理的に何かをした方がいいのかもしれない。でも、そういう気持ちになれない自分がここにいる。なぜだろうか。同じ日本人なのに。ベルギーのテロも同じ。約4年間ベルギーに住んでいた経験のある私は、心の底からベルギーが大好きだ。そして、テロが起こった日。私は、本当に悲しい気持ちになった。知り合いの友人が命を落としたりもした。でも、自分にできることってなんだ。日本に住んでいる自分に何ができる。どんなに必死に考えても、自分の無力さを痛感する日々を感じるだけだった。

しかし、必死に考える中で、思ったことがある。
それは「必死に考えること自体の行為」こそが、「自分のすべきこと」なのではないかと。熊本もベルギーも大変な事態になった時、真っ先に思ったのが、こんなに良い場所なのに、というポジティブな思いだ。

生憎、熊本には未だ訪れたことはない。それでも、熊本県の出身の大学の友達や社会人の方々は皆素晴らしい人格者ばかりである。そうした背景からも、熊本県は素晴らしいところであると容易に想像がつく。そして、もっと知りたいと思った。現地に真剣に行こうかと思っているほどだ。

ベルギーもテロが起きた日に思ったことは、なぜあんなに「安全」な国だったところでテロが起きてしまったのか、という思いであった。ベルギー在住期間中、近隣のヨーロッパ諸国を訪れたが、ベルギーほど落ち着いていて、住みやすい国は他にドイツくらいだろうと感じているくらいだった。フランスやイギリスよりも安全で住みやすかった。それだけに、今回の一件で「ベルギー=テロの国」と日本の世間が抱くイメージを持ってしまったことを残念に思う。全くそんなことはないのに。こうしたイメージがついてしまったからこそ、私は第三者として、あえて各地の素晴らしいところを見つけていくこと、知ること、発信すること、が必要なのではないか。

http://www.tmagazine.co.uk/tintin-herges-masterpiece/

東日本大震災のことを考えてみてほしい。2011年3月11日の地震が起きる前、世界にどれだけの人が、福島県という存在を知っていただろうか。良くも悪くも、震災が起きていなければ、フランス・パリのタクシーの運転手が、「福島の状態は大丈夫なのか」と言われることはなかった。その前日本についてほとんどの外国人は、「Tokyo」くらいしか知らない。今では、「Tokyo」「Osaka」に次いで「Fukushima」がでてくるほどだ。

ベルギーのテロの事件を考えてみてほしい。テロが起こる前、日本人のうちどれだけの人が、ベルギーという国にはオランダ民族圏のフラマンとフランス民族圏のワロン地域があり、文化間対立があることを知っていただろうか。どれだけの人がベルギーがどこに位置しているのか正確に認識することができていただろうか。

そして今回の地震。正直言うと、私は熊本県について全く知らない。でも、今こうして熊本県について文章を書いている。

確かに総合的に事件を見ると、ネガティブの側面が大きい。一方で、ネガティブの中にもポジティブの側面は必ずある。そこを注目していくことが、私が唯一できることなのではないかと思っている。被災者の人々は、地域の中で、一致団結をして、困難な状態を必死で乗り越えようとしている。今までにないほどのチームワークを見せているはずだ。それは、ポジティブなことと言える。そして、私を含めた、直接被害を受けていない人々は、ニュースを通して、SNSを通して、より熊本の状況を知り、見守り、必死に自分には何ができるのかと考えている。それ自体は、ポジティブに捉えるべきことなのかもしれない。被災者から見たら、こんなポジティブに考えられる暇や余裕なんてない、と言われてしまう。それはわかっている。でも、被災者と同じ気持ちになることは不可能だし、無理やり同じ気持ちになる方が失礼であると私は考える。だから被災していない立場として、第三者だからこそ伝えられることを考え、発信をする。そして、同じ日本人として必死に見守る義務があると思っている。この考えに対して不快に思った方がいたらすみません。そして、もっといい方法があれば、ぜひ教えてください。

最後に

どうか、世界中で困難な状況にある皆さん。今日を、今を必死に生きてください。

私も今日も生きます。
私はメディアを通してしか、リアルタイムの情報を得ることはできません。そして私は今まで綴ってきたように無力です。悔しいです。それでも、そこから得られる情報を必死に知っていきたいと思っています。

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Shunsuke Mori
chunkeke-nikki

Joyz Inc. Product Sales Manager/ Sophia Univ./givery Inc. Web Marketing and Sales/Rarejob CS&English counselor/EDUCA co-founder