先日は妙見随一の大事な小さな祠の世話人のお手伝いで、超・ハードなセメント仕事。達成感も充実感もあったけど、不思議と全く疲れない。目覚めも爽快。
ここで白状すると、当然毎日楽しいというわけではなく、ひどく疲弊する日もある。どういうわけか今まで平気だったことも、いつのまにか耐え難い体になった。体が正直になったのだ。
いのちの本道からズレた行動をしていると、ひどく疲弊する。その原因ははじめは、慣れない田舎暮らしや生活面の杜撰さ(笑)悲惨さ(笑)からきている疲れだと思っていたけど、それは違った。
【「垣根」が生まれた時 】
そうなっていた。
端的に言えば、ゲストとホスト、生産者と消費者、核家族という分断。更には、勝ちと負け、上と下、先生と生徒、支配と服従…そして、自分と相手。気づかず自ら枠をつくってしまうこともあれば、意図せず生まれてしまった型に囚われることもある。巧妙に製氷皿に乗せてくる者もいる。
この強欲資本主義においては、
【「今」「評価」されないと、
(「よこ」で「共感」でつながっても)
1円も「お金」にならない。】
お金は上から下に流れるから、この世ではどこまでも這い上がらねばならない。消費者をつくるには、自分と相手と切り分けて、優位に立つのが、手っ取り早かった。自分の原点よりも表層、あり方よりもやり方、中身よりパッケージをととのえると、不本意ながら「評価」された。
みんなの未来より、
自分さえよくば、今さえよくば…
な風潮に付き合ってみたのだ。
だから、その欲という山を登りつめんとし、いい線まで達したが、八合目まで来て、その頂きには何もないことを見抜いた。聞いた、知ったではなく、体験してわかってしまったのだ。まぁ、体験しなくてもはじめからわかってたんだけどね。
「魂と引き換えに力をやろう。」
と誘われ、時にそれが悪魔に魂を売るような行為だとしても、そういう体験をも魂がしてみたかったシナリオみたいだ。この世の中で何が起こっているかを、この「150年の歪みの正体」がなんなのかを、人体実験で突き止め、包み超えるために。
だから、たったと登りつめ、早々と下山した。
そして、次の時代を担う地球文明センターである妙見山に来た。
自分の中にある過去の残骸がうずき、「分離」を生み出すのが、疲弊する原因だった。その根因をコンセプチュアルに言い替えれば、次の時代に要らない行動はするなってこと。
魂の本流からズレている時、体がこっちじゃないとサインをくれる。耳を澄ませば、不確実な時代において、体が答えを知っていることに気付く。
Body knows answer!
不思議なのが、こういう暮らしでは、ジムも瞑想もディズニーランドもアプリゲームも要らないこと。求める心すら起きない。しかし、それらは現代では、全て必ず値札が付き、消費せられ、結果として対価対価…と物と金だけが等価交換せられている。
要するに「近代」という欲望のままに生きる文明の発展が不可避的にもたらしている歪な現象であり、それは「消費文化による豊かさの結果」こそ最大の根因だ。
つまり受け身のライフスタイルによって、「遊ばせてもらう楽しさ」に買い慣らされてしまって、主体的に「遊ぶ喜び」を忘れてしまっているんだ。
生命の働きに意識が生まれ、意識だけが突出した結果、生命と意識が分離し、多くの人から豊かな創造性の芽を摘み取った。主体性を「惜しみなく奪う」ことで消費文化は成立する。その量もスピードも加速し続けているのが現代の一神教文明だ。
その教祖というのは、
どんな宗教や講演家よりも強力な…【金】
そこで今念とすべきは、学校や人任せにしていたその主体的根源的な学ぶ喜びを取り戻すことにある。体には、人、自然と同様に反応、一体化し身体の奥深い中真と溶け合いながら、互いに変化、成長してゆくという生命の働きがある。
教わった知識ではなく、備わった力の発動に依り、生命と意識の境界は徐々に解消され、生命と意識が融合したこれからの時代の新しい生命、意識が育成されていくのだ。
統一から、統合へ。
だから、いのちに痛みが伴うが、次の時代に必要な価値観を「建て分け」ねばならないところに今来ている。世界平和を包み超えて、宇宙進化のためにね。
ようやく清濁併せ呑まなくてよい時代に変わった。
ミナカヌシ様が、タクトをどっちに振っているのか、体がわかってきた。旧態依然のやり方を引きずったまま、次世代のあり方を体現することはできない。「月の意識」を以って、「ミナカの意志」を受け止め、これからは光に向かってまっすぐ走ろう!