聖徳太子の「幻の遷都計画」

修理固成
Cre888
Published in
6 min readJan 8, 2021

和を以って尊しと為す。

神・儒・仏の三法を敬い、
憲法十七乗を制定。

また国際情勢も把握し、

日出る処の天子、書を、
日没する処の天子に致す。
恙なきや。『隋書倭国伝』

外には対等外交、
内には統一圀家を目指し

仏教など先進文化を導入。

小乗も大乗も包み超える

「一大乗」

統一の精神で以って仏道を極め
全ての日本仏教の開祖となり、

推古天皇の摂政として共に

国民の精神レベルそのものを
高めようと意識改革に力を尽くした

「日本圀」中興の祖。

そういった太子の偉業の数々
そのご紹介は他にゆずるとして、

ここでは彼の

知られざる「志」

その本懐について共有したい。

“敬神”なのか?

“崇仏”なのか?

世人の疑問にも応えたい。

聖徳太子伝説「槻峯寺」特集より

ところで、
大阪の野瀬という地域には、

【聖徳太子伝説】

太子建立の由緒ある
神社仏閣が多数点在する。

彼はなぜこの地に建てたのだろうか?

それは当時この土地は、

最も天に近い場

そう思われていたからだ。

遥か飛鳥時代、

太子は黒駒という馬に乗り
斑鳩と大和、山城の国を行き交い、

野瀬はその通過点にあたる。

要所を行き交う街道が重なり
このあたり一帯を見渡せるから

支配者にとっては

この土地を獲ることが
重要な意味を持っていたのだ。

その先の出雲の者たちから、
自分たちを守るための

防衛の要にもなっていた。

当時は日本は、
大きな意味では統一されていなかった。

天皇という権力に
豪族たちが集まり政治をしていたが、

地方には従わない土着民もおり、
統一はされていなかった。

そのための、
防衛の場がいくつか配置されていた。

当時の支配者にとって
中国地方は注意すべき者たち。

自分たちのルーツを脅かす
歴史を持っていたからだ。

そこをおさめるためにも
野瀬の地を抑えていることは
とても大事だった。

太子は、最も天に近いこの地で
ご神託を受けることもしていた。

星々に祈りを捧げ、
玅見神(天御中主神)の加護をもらう。

そうした星祭りは今でも行われている。

太子は、今でいう
風水のような考えを利用して、

呪術をかけるということもしていた。

この土地の氣の流れを利用し、
都に結界を張っていたのだ。

南北の氣の流れ

…と、まぁ、

表向きには、
こういった防衛の意味がある。

その実、

彼がこの地を選び
真につくろうと志したものとは…

新しい”都”

平安神社 絵巻より

野瀬京:幻の遷都計画

志半ばに終わったものの、
新都造営が本懐にあったのだ。

当時の都は、
本来の国の形を成さなくなっていた。

権力者が権力のために国を治め
堕ちるところまだ堕ちていたのだ。

そもそも、

「大和」という国が
生まれたはじまりは、

平和な圀をつくり、

万民のための
地球をつくっていく

その思想のもとに、

天と地をつなぐ民族
として繋がり合い

ひとつの圀をつくる

この素晴らしい思想のもとに
生まれた圀であった。

それを再び新たに建てなおし、
作り直す必要があった時代だったのだ。

まず人の心を戻す必要があった。

そのためには
思想から変えていかねばならない。

当時は「宗教」を必要とした。

だから、
仏教という先進文化を導入したのだ。

世人の中で疑問となっているのが、

古来より習俗として信仰されてきた
神道を重んじつつも、

尚、太子は、

異国からもたらされた
仏教を興隆する詔を発願し

「国是」として推し進めた、

その本義はどこにあったのか。

それは親鸞上人の夢枕に告げられた
聖徳太子の御言葉から自ずと覚る。

「日域大乗相応地」

(日域は大乗相応の地なり)

修行する親鸞と夢枕の太子

即ち、神道が、
「日本人の心の”道”」 ならば、

仏教は、それを説明する
「日本人の心の”教え”」 だ。

大乗仏教こそ、

日本人の心の道を
法として具に紐解く

日本の国柄に
相応した宗教であり、

日本国は、

大乗仏教の栄えるに
ふさわしい神の御国である。

従って、

“排神”なのか?
“崇仏”なのか?

議論が絶えないが、

畢竟、どちらかに非ず

敬神にして、

崇仏である。

そういうわけで、

太子は、

宗教の力を借りることで

先進文化を導入すると共に
人々の「意識改革」を推進し、

更に、違う場所に新たな都を求めた。

即ち「遷都」

千代に八千代に続き
四方八方に拡がる

日本圀に向け創世しなおすために

都も思想も
国民精神も全てに渡る

「一大変革」を志していたのだ。

その「まつり(祀・政)の復興の地」として
野瀬の地に白羽の矢が立ったのである。

表向きは防衛の意味で
推古天皇と共に話を進めていた。

邪魔が入るからだ。

まずは防衛のための
組織を作ったが

新たな日本を興し
建てなおすことを目指したが

しかし、志半ばで
頓挫してしまったのは、

歴史の通りである。

そして、その中心地が
野間神社であった。

通常の神社は
山を背にしてつくられるが、

村の中央にお宮が建てられた配置は、

「遷都計画」が
あったからに他ならない。

本来なら新たな大和のシンボルだ!

野間神社は、勅命を受け太子が創建(推古13年)

そして、

時を越えて
太子の志を引き継ぎ、

今のこの時代に、
新しい国をつくっていく

そのために野瀬は、

既に到来している新時代を
敏感に察知した

使命・役目の持ち主が集う
新たな中心地ともなっている。

今では失われつつある
日本の伝統・文化が

辛うじて残るこの野瀬の地。

遥か飛鳥の時代から
脈々と受け継がれてきた

「大和ノ心」

これを再発見し
創造的継承するところに、

今を生きる我々の

「歴史的使命」がある。

--

--