修理固成
Cre888
Published in
Aug 31, 2019

「人生の経営者(創造主)」たれ!

規格外の農作物が流通からはじかれ廃棄されるのと同じように、異常発達した人物には不合格印や病名を付けられ排除されるこの世の中。

機械の代替のような労働や教育は、想像の余地も創造性も根こそぎ奪い去る。誰でもできるようコピーを複製する上でのイレギュラーとなる原因を潰すためだ。

ところが、勝手に発達障害だとかレッテルを貼られ隔離された子たちの中には、感性の豊かな子、心優しい子、真に才能のある子、不登校や天才児、王の器、志士のたまごたちが居て、理解の範疇を超える莫大なポテンシャルが秘められている。そういう子たちというのは、退屈な大人たち作った校則で拘束しても収まるはずがない規格外の才能の持ち主、すなわち出る杭だ。

自ら学びを掘り取るつるはしさえ鍛えれば、画一化した学校や塾なんかに通わなくても、そこら中に教材だらけの地球キャンパスで学び続ける生き方が可能になる。となれば、日々の生活の中に学びの種は至る所に存在していると考えてよい。

己の真実に触れると勝手に発動する時代だから、その種を見つけること、その意味を嗅ぎ取る動物的嗅覚こそが生きる力の源泉だ。

21世紀を生きる我々にとって、真に豊かな暮らしとは、消費するだけの暮らしではない。そう考えている。

使うだけ、消費するだけという思い込まされた幸せとは決別を誓い、暮らしにまつわる色々なことを自分達の手をかけて、作り、育てていく。そういう意味での「人生の経営者」としてクリエイティブ(Cre8)に生きていくのだ。

そのためにも、自ら鍬をふり、草を刈り、火を焚き、種を蒔き、土を運び、薪を割り、ゴミを担ぎ、釜飯を炊き、自ら育てる新鮮なる野菜を食す中で、

自ら作り、体験し、試み、考え、苦悶し、自ら作り手に回って一連のクリエイター経験ができるような

「学び、耕し、旅する学校を作りたい」という想いから、888番地の古民家みつはの里(888)と関わろうと決意し、能勢へ移住した個人的な原点だ。

ところが、学校現場に身を置いていると、教える人も教わる人も根本的に何かがヌケてしまっているのが目につく。「遊ばされる喜び」にすっかり飼い慣らされてしまって、主体的に「遊ぶ喜び」を忘れてしまっているセミの抜け殻のような感じだ。

発見する喜びも主体性も惜しみなく奪うことで大量生産・大量消費文化を成立させ、コンシューマーという言葉を生んだ。

そうやって衣食住のすべてをコピーの消費で済ませる生き方に吸い込まれた挙句、各人固有の創造力はもとより生きる力や感性まで不要にしがちになった。生活を画一化しただけでなく、人間まで画一化したおそれがある。

やがて、工場で作られた模倣品を粗末にすることが豊かさだと錯覚したかのように、ただただゴミを増やす生き方になっていく。それはモノを粗末にする社会にしただけでなく、ついには、人間まで粗末にする社会にした。

短かった学生時代に続く実社会という名の大都会には人間の肥大化する欲望が渦巻いていた。ここは清らかなもの、美しいものの存在を決して許さぬ固い意志でもあるのか。

この文明大転換期の波頭に際して、宇宙大の念いを遂げることよりも、今さえよくば、自分さえよくば…とやたらとツールや資格を集めに集め、自分を癒し、満たし、ワクワクすることにやたらとお熱。

まぁそういう補助輪も「私という呪縛」を包み超えることには役立つ。でも、その実やっとスタート地点に立ったに過ぎないのに、自我実現がまるで最終到達ゴールであるかのように、単なる通過点に安住せられ囚われの身となっている。なんとか資格スクールみたいな断片的な補助輪でカネを稼いだり、カネを無駄にしたりするのは概して無駄。

徹底的に人工化された情報社会においては、決められた清らかさと決められた美しさ以外は存在することすら認められないのだろうか。

そういう3次元世界の[管理・分断・均質化]という同調圧力に屈せず、5次元生命体として[多様化・連携・一体化]に生きると、変容進化し続ける定めへと自ずと道引かれる。要するに、ふつうに生きれない体になるのだ(笑)

ここに差別化を図るとか人と違うことをするという競争意識は全くない。単に己の心に問いかけて、その答えを生きるだけだ。

正気と狂気の間の細い道を歩むうちに、気づけば「究極のマクドナルド化(いつでも誰でもできるマニュアル化・再現性の追求)」と「利益の最大化」を目指す工業社会のレールからはみ出た不良(品)に成り果てていた。奇をてらうでもなく、素直な選択と行動を繰り返しているだけなんだけどもね。

結果、常に変化するから一貫性がないとよく言われるが、絶えず変化し続けているという意味では一貫性しかない。人々と調和しながら変化してゆくなら、それこそが自然な運びだと念う。

そういうわけで(?)過去の延長線上や補助輪販売に安住したら楽な道が見え透いても、自我実現止まりを許されない定めにある。大抵のことは一定のお役目を終えたら一年も経たずに引き剥がされる。いくら正しかろうが、楽しかろうが、メリットや儲けがあろうが、どこか気がすすまないのは「美しくないこと」を「魂が嫌がる」から。

諦めたら試合終了どころか、魂売ったら、人間終わりだ。

我々は、与えられたレールを受け身で歩む「人生の贋作物(コピー人間)」ではなく、自らに由る自由を以ってクリエイティブに生きる

【人生の経営者(創造主)】だからである。

自分自身の未来や死後のことなど正解が見つからない問いに接した時、私たちはどのように向き合い対処するか?

触れずそっとしておいたり、意味がないと思考停止してフリーズしたり、一歩引く姿勢を取ることが少なくない。もしくは、トライしても計画通りにいかず思い通りにいかない渦中にあって、ストレスに苛まれるか。

不可知や不確実に対して、怒りや恐れを覚えて、打倒や排除しようとするのは実にもったいない。不安のあまり手を引くのではなく、正解の見つからない生きた問いを体に招き入れることを選ぼう。不確実であるならば「生きた解(生解:Living Solution)」を出し続ければよいだけだ。

未来には、願望の未来と必然の未来がある。

時代の道筋に目を凝らし、法則性と連動性にさえ気がつくことができれば、未来に起こるいかなる事象も必然となりうる。

自己実現願望はとっとと満たして卒業し、令和時代の暗黙の要請である「必然の未来」を今ここから目指さなければならない時が来ている。

我々は今まで、ビジョンから逆算して明確に計画し具体的な行動に取り組む、と習ってきた。行き先へのシナリオも行き方もはっきりさせるのは、とても効果的で強力。

道筋が決まれば安心だが、しかし、至る所に遍在している「人知を超える選択肢」を知らず知らず切り捨ててしまうことになる。この叡智を引き出す工夫が「シナリオを定めない」こと。

計画が空っぽというのは、何もないのではない。

何でも受け入れ、何にでも化ける無限の可能性を秘めている。不安だからと予定を自分で埋めるのではなく、じっと待ってみる。変に意識しすぎると殺気が出て、創造的な流れを打ち消してしまう。意図せず意図して、狙わず撃ち落とすという微妙な隙間に真実がある。忘れるくらいがちょうどいいし、忘れた頃に気づけば隣にいるのがそれだ。

そういう余白にこそ、奇跡が舞い込む。

これは偶然に見えて、実は大宇宙から観たら大いなる予定調和だ。だから、必要必然ベストが目の前に次々と現れる。その方がゆたかに考え、ゆたかに存在し、ゆたかに出逢い、ゆたかに生き、ゆたかに自分自身で在れる。

平成の延長線上の予定調和が通用しなくなる、この乱気流の時代を突破せよ!

母なる大宇宙の本源的中心からミナカヌシの神直火🔥で、次代の必然へとタクトが振られている。だからこそ、いのちから湧き出す大いなる流れに逆らわず、受け容れ、建て分け、愉しむのみ。

「天命(自己超越の使命)」とは

即ち【Calling】

神々からいきなりかかってくる電話に思考を挟まず」瞬発力」を以って応えていくうちに、「私という呪縛(囚)」を包み超え、【超超越】してゆくのだ。

宇宙進化の気流と同調(syncing)すれば、帆を張るだけで未来の方からほほえみかけられる。直感の赴くままに、明日へと吹く風に身を任せつつ〜ふるべ〜ゆらゆらと〜ふるべ〜

外の宇宙に重きを置いて自分を服従させるよりも、どちらかというと自らの内なる宇宙を突き詰めていって、その真実に忠実であった方が、神ながらに運ばれてゆく連鎖調和の時代。己の真実に触れると、勝手に発動し起爆するのだ⚡️

偶然ではない出逢いと別れに導かれ、そういう深い源泉と繋がった時、人は驚くほどの偶然の一致を次々と経験する。シンクロニシティーは、制御できないが、実は不規則でも不確実でもない。実のところ、己を超えた創作活動の最大の成果のひとつは、シンクロニシティーの力が信頼できる形でいつも働く点にある。

いわば、母なる宇宙が創造したがっているものが、我々を通じて現われ出てようとしている状態なので、それを受け止めカタチにしていく時、あらゆる方面から絶大な応援が入るのだ。時代がそうさせるに他ならない。

だからこそ、己の心に問いかけて、その答えを生きるのみ。

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