歴史の大局と新時代への指針(国是)

修理固成
Cre888
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34 min readNov 19, 2018

今後の世界文明の見据える
「大局観」として、

日ノ本の国是を共有する。

国是を考える(要約)

明治150年間の「5つの歪み」を正す「国是三綱領」

1「欧米中心主義という歪み」→「共生文明の創造」
2「欲望民主主義という歪み」→「高徳国家の建設」
3「膨張資本主義という歪み」→「公益経済の確立」
4「東京一極集中という歪み」→「地方分権」
5「部分対立思想という歪み」→「綜合學問」

共生文明の創造:東西文明の長所を統合した新しい世界

高徳国家の建設:意識レベルを上げて生き易い世の中へ

公益経済の確立:公益によって豊かさの偏らない社会を

国是を考える:その1乱気流の時代に必要なのは「国是(国家目標)」

個人中心主義や横並び民主主義が蔓延した結果だろうか、「国是(国家の大方針)」の重要性を理解しない人が増えている。指導者と呼ばれる人たちも、概して見識が小粒になっ てしまった。そこで、この根本命題を考えてみる。

国民は、みんな一所懸命生きている。政治家や官僚、経営者も(一部の人を除いて)、それぞれ自分の持ち場で努力を重ねている。なのに、世の中なかなか良くならない。諸問題のツケは溜まる一方で、夢や希望を持てない人が増えている。みんながんばっているのに、どうして上手くいかないのだろうか。

その理由の一つに「次 の日本が見えていない」ということがあるのではないか。国民が共通して仰ぐことの出来る、国家目標なり国是、即ち「共通の夢」というものが見当たらないと。一体あなたは、 今という時代のどこに立っているのか。

これから日本が時代が向かうべき方向に対し、何を担い、どう貢献していくつもりかと問い掛けられたとき、何と答えればいいのだろうか。その辺りが不明瞭でモヤモヤしているか、または考えるゆとりのないまま、日々目先の些事に追われているのが実際のところだと思う。真面目な国民ほど、自分という存在が宙に浮いていき、虚無感や閉塞感に襲われてしまうことになる。

国家目標が無くても構わなかった日本、国是を考えなくても生きてこられた日本人。今ま ではそれで良かったが、これからはそうはいかない。国家の大方針を打ち立てる政治が起こされねばならないし、それに向かって一人ひとりが役割を果たしていかねばならない時代が来たと思う。

そこで、私は何から始めたか。

国是を考える:その2幕末志士の多くが下級武士から出た理由

国家目標が無くても構わなかった日本、国是を考えなくても生きてこられた日本人。松下幸之助翁も、国に目標が無いから景気がよくならないと訴えていた。

今の青年たちもそうだろうが、私も若い頃、幕末志士から強い影響を受けた。学生時代に読んだ司馬遼太郎の『龍馬がゆく』や、NHK大河ドラマの「花神」などに惹かれ、そこに登場する坂本龍馬や吉田松陰の生き様に憧れたものだ。

さらに、西郷隆盛や勝海舟、橋本左内、河井継之助らへと関心が広がると、あることに気付いた。それは、幕末志士たちの多くが「下級武士出身者」で占められているという事実だ。

そして、疑問が湧いた。龍馬や松陰、西郷や海舟らは、何を学んで志士となったのか。開明的な藩主や、有能な中級・上級武士らも、幕末期にちゃんと活動している。なのに、どうして志士と呼ばれるほどの人物になると、下級武士から出ることになるのかと。

その理由として、二つの事がひらめいた。

一つは、朱子学や陽明学、兵学などを学ぶことによって武士としての誇りや使命感があったということだ。下級というのは俸禄が少ないというだけのことであって、学問に劣るわけではなく気迫に後れを取っているわけでもない。どんなに生活が苦しくとも、武士としての矜持や気概は、徳川太平の世の中にあっても代々受け継がれ、全然損なわれなかったのである。

もう一つひらめいた理由は、中級・上級武士に比べて家格が低い分、守らねばならないしがらみが少なく、身軽に活動出来た点だ。藩主や家老のように身分が高いと一々動きが大事になるが、下級武士ならばフットワークよく動けるのである。

身分が高いほど、どうしても現体制を守ることが役割となる。改善や改良くらいならやれても、刷新や維新となると、その身分が邪魔することになる。幕藩体制を倒さねばならなくなったとき、その役割は必然的に下級武士に託されることになったのだ。

武士としての誇りと使命感、しかし下級であることによる動きの軽快さ。それが龍馬などの志士を生んだというわけである。では、横並び民主主義の現代にあって“下級武士”はいるのかどうか。いるなら、どこに潜んでいるのか。

私の沈思が続いた。

国是を考える:その3時間は掛かるが、手塩に掛けて志士育成をやるしかない

横並び民主主義の現代にあって、坂本龍馬のような“下級武士”なんているのかどうか。いるとしても、一体どこに潜んでいるのか。

そう思っていたところ、2020年(令和2年)、ある辺境で啓示を受けることになる。「令和の下級武士は、無名の一般人の中にいる。時代を変える志士を捜せ、そして育てよ!」という答えが示されたのだ。

啓示を受けた私は、フットワークのいい若手志士や女傑たちが立ち上がって日本を改新し、この天下国家を再び理り成すという国是「修理固成」を掲げた。

文明の転換を前提に日本を改新せよ。

日本人としての誇りを持った志士となれ!

損得でしか動こうとしない

膨張資本主義に変わる

新しい経済原理を起こせ!

などと訴えてきた。

やがて、それらは国是三綱領である「共生文明の創造」「高徳国家の建設」「公益経済の確立」へ繋がっていくことになる。

国是を考える:その4国是を担う以上、国是イコール人生でなくて何とする!

国是の必要性が、現下の日本において殆ど理解されていない。だから、この国是シリーズを書いている。第一、政治家が分かっていない。国是は、会社なら社是に置き換えることが出来る。国是は国家の大方針、社是は会社の大方針だ。

会社の経営陣にとって、社是イコール自分の人生というくらい、社是と人生が一体でなければおかしい。経営陣が社是を等身大に捉えていればどうなるか。経営陣の誰が語ろうが、その話から会社の全体像と将来ビジョンが見えてくるはずだ。会社の将来を議論する大事な役員会議も、会社の大方針が周知徹底されていれば、単なる実践報告会や事例発表会で終わってしまうような愚を避けられるはずだ。

同様に、国是を担当する政治家から語られる言葉には、日本国の将来像と国民の進む道筋が表れていて当然なり。国是を担う以上、国是イコール政治家人生でなくて何とする。

国是を担う志士政治家から滲み出てくる言葉は、単なる評論や抽象論とはわけが違う。将来の理想を語る一方で、現実の諸問題を分析し、その理想と現実のギャップを埋めるための政策と工程がきちんと説明されていく。

それは、語れと言われてから慌てて述べるような場当たりなものではなく、言うなと言われても、つい口から出てしまうほど、已むに已まれぬ思いに裏打ちされている熱誠の吐露である。

だから、自分の主張や取り組みが、ひいてはどこかで国是に繋がっているという程度のものではない。国是担当政治家の頭の中には、日本に必要な様々な事柄がマンダラのように配置されていて、そこから縦横無尽に語られるようになって欲しい。

要するに、人生の根が日本全体に広がっているかどうか、我が事が日本全体に及んでいるかどうかだ。その人の政治的主張の目立つところに、トッピングのように国是を飾っている程度では全然お話にならないではないか。

では、どうするか。国是を我が事とする政治家に育つためには、文明学・歴史学・人物論・伝統精神・国民文化などを、しっかり学んでいなければならない。これらの素養が無いと、国是の本質を理解する力が湧いてこない。

国是を少しかじっておけばいいだろうという程度の、トッピング政治屋は御免被りたい。

国是を考える:その5世界は連鎖崩壊の危機にある!

では、一流の政治家とは何か。

それは、今この時代に影響を与えられるばかりでなく、将来に渡ってその識見と行動が評価され続ける人物のことだ。三千人の志士を育てた佐藤一斎という江戸時代後期の大学者が、

「世間第一等の人物」ではなく

「古今第一等の人物」となれ!

と諭したのがそれである。

とことん生きている間に活躍し、さらに死後になって高く評価されるほどであってこそ「古今第一等の人物」と言えるのだ。

それには、世界の動きを大局的に掴み、我が国の原点を深く学び、将来展望を綜合的・具体的に練り、志の高い仲間と共に一心同体となって行動していく志士政治家とならねばならない。要は、歴史の評価に耐えられる人物であるかどうかだ。

では、世界は大局的にどう動いているのか。

それを知るための座標軸が、東西文明800年周期交代の事実を明らかにした「文明法則史学」だ。それによれば、21世紀は東西文明の交代期であり、2025年頃から2050年頃が文明転換の“暴風域”の時期となる。

2020年は、旧文明の終わりが判然とする時となった。アメリカの分断で民主主義が終わり、 続いてチャイナの膨張で資本主義が限界に達する。米中対立を別の角度から見れば、身勝手な民主主義と私欲無限追求の資本主義が、いよいよ終焉の時を迎えるということだ。

連鎖崩壊の危機の中で、世界をまとめられる軸が存在しなくなってきている。誰も次に来る世界と文明を描いていないのだ。新文明を起こせるだけの哲学思想、世界観や文明観が 政治にもどこにも無いのだ。「世界の将来が見えなくなっている」というところに人類最 大の危機があるのである。

既に人類は、文明交代期中一番の激動期に入っている。このことから、我々は決して目を逸らしてはならない。そして、世界が困っているところに日本と日本人の役割がある。その役割を明文化したのが、綜學の国是三綱領の「共生文明の創造」「高徳国家の建設」「公益経済の確立」なのである。

国是を考える:その6明治維新以来、150年間溜まった「5つの歪み」

次に、我が国の歴史から日本の現在位置を考えてみよう。文明法則史学の結論から言えば、間もなく新しい社会秩序が誕生し、日本史の章立てが変わるときにある。

どの国の歴史にも盛衰があり、社会秩序(SS、ソーシャルシステム)の固まりというものがある。一連の政治体制、それを支える経済システム、文化のパターンなどを見ると、社会秩序の存在を認めることが可能となるのだ。

我が国の場合、これまで上古SS(大和朝廷による古墳時代)、古代SS(律令体制による奈良平安時代)、中世SS(前期武家社会である鎌倉室町時代)、近世SS(後期武家社会である織豊徳川時代)、近代SS(近代国家を建設した明治・大正・敗戦までの昭和時代)の5個のSSが展開した。

そして、戦後に復興期の一山があったものの、70年以上に亘って“アメリカ占領下”に置かれていたため、6個目のSSを誕生させられないまま今日に至っている。

そういうことから、如何にして新しいSS(新日本SS)を誕生させるかに国民の悲願があり、国是担当地方議員共通の使命があるということになる。

ところで、「敗戦前の日本に戻ればいい」という意見をよく耳にするが、私の見解はちょっと違う。さらに物差しを長く取って、明治維新以来150年間溜まった歪みというものを的確に認識し、それらを正していかねばならないと考えている。

戦前戦後で区切って終わりとする歴史区分では、見えてこない真実があるのだ。明治維新と共に日本に何が起こり、何が失われてきたかを検証することの必要性を提唱したいわけで、それだけ日本の混迷の根は深いのである。

明治維新以来、150年間溜まった歪みとは何か。

その結論を5点(5つの歪み)挙げておこう。

1「欧米中心主義という歪み」
~欧米を崇拝し、東洋・日本を卑下する

2「欲望民主主義という歪み」
~人民は王様(君主)、横並びの責任者不在国家へ

3「膨張資本主義という歪み」
~お金が全て、無限成長の呪縛にはまる

4「東京一極集中という歪み」
~地方の優秀な人財はひたすら東京へ

5「部分対立思想という歪み」
~部分しか見ない、社会を対立闘争観で見る

これらに、どう対応したらいいのか。5つの歪みに対して、どういう国是を立てればいいのか。そこに、我が国に6個目のSSが誕生するかどうかが掛かっている。いよいよ運命のときがやって来たのだ!

国是を考える:その7欧米中心主義という歪みを正して「共生文明の創造」

嘉永6年(1853)、アメリカ海軍提督ペリーが率いる4隻の黒船(軍艦)が、浦賀(神奈川県)の沖合に来航。ペリーは砲艦外交を仕掛け、日本に開国と通商を要求してきた。

日本人は、この黒船に大騒ぎとなる。以来、技術力や軍事力に優れた西洋文明に恐れをなすと同時に、強い憧れを抱くことにもなった。我が国は、米・英・露・仏などの列強に侵略されないよう、東洋初の近代国家建設に邁進することになったのだ。

日本人には、新しい文化や技術を積極的に導入する進取の精神がある。それ自体は一つの特性なのだが、行き過ぎると、捨ててはならない価値あるものを、あっさりと廃棄してしまうことにもなる。

明治維新以後がそうだった。それまで日本を支えてきた伝統の文物は、二束三文で売り払われていった。文化や精神も、日本的・東洋的であるものは、西洋のそれと比べて価値が著しく低いと見なされた。

それが「5つの歪み」の1番目である「欧米中心主義という歪み」だ。

世界を制覇している欧米を崇拝し、後れている東洋や日本は徹底して卑下するという風潮が起こってしまったのだ。この1番目の歪みを正すための大方針が

「共生文明の創造」である。

共生とは互いに相手を認め合い、共に生かし合う関係のことなり。

その「共に生かし合う関係」は、人と人、人と自然、国と国、西洋文明と東洋文明、物質と精神などにおいて構築されるべきと考える。

人種や民族が対立するのではなく、
その歴史や言語、伝統文化の多様性が守られ、互いに尊敬し合える

「人と人の共生文明」へ。

人間の便利と都合を優先する環境破壊型文明ではなく、

「自然知」を生かした

「人と自然の共生文明」へ。

国家エゴがぶつかり合う覇道対立状態から、
大国・小国の違いを超えて礼交を重んずる

「国と国の共生文明」へ。

西洋中心の物質文明の「機械的特徴」を、
東洋の叡智がもつ「精神的活力」によって調和させた

「東西統合の共生文明」へ。

多元的に変容進化させねばならないのである。

兎に角、このままでは地球の意識レベルが低過ぎる。まずは、日本国の徳から上げていこう。それが、2番目の歪みを正すための大方針となる「高徳国家の建設」

国是を考える:その8国民の意識レベルを上げて、今こそ「高徳国家の建設」を!

大人物と思える政治家が周りにいない。100年後の歴史小説家にとって、主人公にしたくなるような政治家が今の日本にいるのだろうか。

そういう疑問をしばしば耳にするが、選挙で政治家を選んでいる以上、有権者の意識レベルに応じた政治家しか出てこないのは当然だ。国民の意識レベルを上げないことには、いくら資質に優れた人財がいたとしても、その者に活躍の舞台は与えらずじまいとなるのである。

明治維新以来、150年間溜まった歪みの2番目は「欲望民主主義という歪み」だ。

欧米諸国の政治の強さは、民主政治によって国民の意思が政治に反映されているところにある。そう考えた明治の人々が、近代国家の建設に当たって、日本も民主主義を採り入れていかねばならないと考えたのは当然である。

そもそも民主政治は、国民一人ひとりが主体性を持って政治に取り組むことを基本にしている。国民が政治の主役となるのだから、政治の責任は自分たちにあるという自覚が欲しい。善政で幸せになるのも悪政で苦しむのも、原因は国民の意識レベルに掛かっていると。

ところが、主(ぬし)である民(たみ)の欲望を満足させるために政治家がいるということになると、デモクラシーは無責任な欲望民主主義と化して、おかしな方へ向かってしまう。有権者は、国家全体の将来よりも、目の前の利益にしか目が行かなくなるのだ。

「自由」と「平等」も、この欲望民主主義に拍車を掛けた。勝手主義の自由や悪平等だ。

これらの弊害を是正するには、それぞれに筋の通った解釈を入れ直す必要がある。行き過ぎた欲望民主主義には「民が本氣になってしっかりせよ」という「民本」を、勝手主義の自由には責任の自覚を促す「自立」を、何でも横並びにすればOKという観念的な悪平等には現実を踏まえた社会的「公正」を、それぞれ真意として加えて頂きたい。そうでなければ日本人は、ひ弱な個人中心主義から、いつまでも脱皮出来ないまま益々小粒化していくだろう。

文明交代期中の激変期(2025頃~2050頃)が目の前に迫っている今こそ、国民精神の向上を図り、政治の質を思い切って引き上げねばならない。このままでは真のリーダーが不在のまま、我が国は自然消滅の道を辿ることになってしまう。それを食い止めるところに「高徳国家の建設」の目的があるのだ。

国是を考える:その9「徳が高くなった」とは、一体どういうことか?

「あの人は随分徳が高くなった」、「まだ徳が低いから役職を任せられない」などというように、日本人は徳という言葉を好んで使う。だが、徳の意味をよく考えて用いている人は、案外少ない気がする。

「徳」

の字義は「彳(ぎょうにんべん)」にある。彳は人や物が往来する四辻の左半分を示しており、行くこと、つまり行動を意味している(徳の右半分はチョク→トクという読み)。

徳は行動によって示すマコトであり、行動によって磨かれるのが徳だ。行動が基本であるということは、徳は実行によって答を出していこうとする責任感を示していることになる。

つまり、徳が高くなったというのは、いろいろや経験を積み、与えられた職務をきちんと果たすことによって、責任感や信頼感が備わってきたということに他ならない。

そして、責任感や信頼感が増せば、仲間が付いて来るようになるし、同志も増えてくる。多くの仲間を受け入れる器量や貫目が育ってきたのだ。さらに、厳しさばかりでなく寛容の心がバランスよく加われば、一層包容力が大きくなって徳望は増すばかりとなるだろう。

即ち、徳とは優れた人間性や品格、秀でた人間力のことであり、高徳とは徳性が高まることなのである。

それは、日本人が本来持っていた精神である「お互い様」という支え合いの心、「どうぞお先に」という譲り合いの心、「お陰様で」という感謝の心、「勿体ない」という物を生かす心などに現れていく。

それらの心を取り戻し、国民の徳性が向上することを願う。高徳国家となれば、幸福感が向上し、素直な愛国心が生じ、「国民の絆」が強固に結ばれるはずだ。

また、地方にも徳性の涵養を求めたいと思う。地方には、まだまだ独自の文化力、歴史力、言語力、教育力、技術力、あるいは豊かな自然や風土、人間性などの環境力がある。それらは「地方の徳」と呼べるものだ。それを生かすことで、地方の自立を進め、明治以来の東京一極集中から、自然な脱却を図ろうではないか。

やがて世界中の国々が「国家の徳性」を競い合うようになれば、どれほど素晴らしい世の中になることかとワクワクする。徳が低いままでは、人類は決して幸福になれない。まず日本国を高徳国家のモデルとしよう。そのために、出来ることから始めていけばいい。

国是を考える:その10☆膨張資本主義という歪みを正して「公益経済の確立」を!

お金は大切だが、お金が人生の全てではないし、お金さえあれば必ず幸せになれるというわけでもない。大抵の日本人はそのように考えてきたが、資本主義文明が入って来た明治維新以降、次第に拝金主義が蔓延していった。

拝金主義の世の中では、お金で何でも解決できると思う人が増える。どれだけお金を儲けたかで、成功の度合いが計られるようになるのだ。やがて誰もがお金の為に生きるようになり、その欲望を満たす為、無限に成長し続けなければ維持出来ないという、膨張資本主義の呪縛に填っていくのである。

膨張資本主義は「全体にとってどうなのか」を省みる哲学を持たないまま、地球環境を破壊し続けてきた。その利益至上主義は、仕事に喜びを感じられず、成果を上げても幸福を感じることの出来ない人々を育てていった。経済活動の良し悪しを合理性や効率性に置き、成長の基準を量的拡大と数値の上昇に求め過ぎたと言える。

結局、旧来の資本主義は、その物欲拡大のエネルギーに比べ、公益に叶う目的の崇高さに乏しかった。せっかく素晴らしい企業理念を持っているのに、いつの間にか忘れてしまって不祥事を起こしてしまう会社も多々現れた。

この限界を迎えている旧来型の膨張資本主義に替わって、次の文明を支える経済システムとして期待されてきたのが

「公益資本主義」だ。

公益とは、世の中全体の利益のことである。個々に私利私欲を満たして終わるのではなく、お互い世のため・人のために働くのが「公益経済」である。

公益経済の基本は次の三点にある。第一は天地自然の働きを生かした循環型経済で、これを「天本主義経済」という。第二は「地域経済生態系」を基盤とする地産・地流・地消経済であり、これを「地本主義経済」という。第三は人が仕合わせになる互恵繁栄経済であり、これを「人本主義経済」という。

お金は人間社会の血液であり、その循環系が経済システムだ。血液が健康に流れ、鬱血も貧血もなく、世の中全体が幸せになるのが、公益資本主義によるところの公益経済である。

文明法則史学から見れば、資本主義は、ここ300年間の資本主義SS(社会秩序)を支えた経済システムであった。当初は、事業意欲のあるところにお金が投資されるという、極めて効果的な仕組みであったが、どんなシステムにも制度疲労と寿命がある。

資本主義は、その膨張をコントロールできないまま、お金の儲かるところにしか、お金が集まらない状況を極めてしまった。この現状は資本主義の限界を如実に示している。また米中の経済戦争は、膨張資本主義の最終段階を象徴していると思う。

今世界は、旧来型の資本主義に替わる新しい経済システムを求めている。それを先駆けてやろうという国是が、「公益経済の確立」なのだ。

国是を考える:その11国是が定まることによって、
国家の存在意義が明らかになり「国運」が高まる!

「共生文明の創造」

「高徳国家の建設」

「公益経済の確立」

これらは表現として少々難しいが、長年に亘る考察を経て集約させたものだ。この3つは、「国是三綱領」と呼んでいる。

国是は国の大方針であり、国家の基本理念だ。そこには目指すべき国家像と、国民の進むべき方向が示されている。更に一言に統べ括ると、即ち「修理固成」ということになる。国是が定まることによって、国家の存在意義が明らかになり、国運が高まるのである。

明治以来我が国は、西洋中心の物質文明と個人中心の人間観、さらに略奪膨張型の資本主義経済を受け入れ、これらを基盤に据えて国家建設に励んできた。

ところが、この考え方とあり方が大きく行き詰まっている。今日に至る150年間、我が国の繁栄を支えてきたのは確かだが、失ったものも少なくない。自然の摂理に逆らい、いのちが先細りする社会システムは、今後の日本と世界を主導する原理から程遠いものとなってしまった。穢れた仕組みは次の時代に持ち込めない。だから今こそ、国家の基本精神そのものから見直しを図り、国民が希望を持てる国是を打ち出すべきである。

先に述べた通り、新しい国是は、これから150年以上持続するものでなければならない。明治以来、およそ150年に渡って価値ある伝統が損なわれつつ今に至り、5つの歪みが蓄積されてきた。それを本来の姿に戻しつつ、世界の平和と人類の幸福に貢献する国家を創成していくのだから、同等の時間を要するというわけである。

地方は寂れる一方だ。これをどこかで切り替えていかないと…

5つの歪みの4点目は、

「東京一極集中という歪み」だ。

明治維新以来、地方の優秀な人財はひたすら東京(大都会)を目指した。一流大学で学び、そのまま一流会社に就職し、もはや故郷に戻るということはなかった。これを150年間やってきたのだから、地方が衰亡するのは当たり前だ。東京は地方が育てた人財によって、一極繁栄を続けてきたのである。

地方は寂れる一方だ。これをどこかで切り替えていかないと、東京(首都圏)に残存している“残り汁”を啜り終わったときが日本の最期となりかねない。

では、どうするか。「分都」をやるべきと考える。例えば、実務を行う東京は「政都」、文化の奥座敷である京都(関西圏)は「皇都」と位置付け、両都の連絡で首都機能を担うというのはどうか。日本にやって来る外国の首脳は、まず政都で会議をし、皇都でおもてなしを受けるのである。

そうなると皇居は皇都に遷すことになるが、天皇陛下は、やはり東京にお住まいになられるべきだという意見もある。天皇陛下が政府や国会の近くにおられてこそ、政治家は襟を正すことになるという意見だ。それは尤もな見解だと思うが、陛下には政都(現在の皇居)と皇都(新しい都)を行き来して頂くという方法もあるのではないか。

兎に角、少子高齢化によって、地方はお先真っ暗となっている。地方再生は急務だ。地方分権を進めるにあたって、水系(大きな河川の流域)や歴史(かつての藩やクニなど)は、道州制や基礎自治体の境界を決める際の基準となるだろう。

対立観や闘争観でのみ世界を理解しようとすることの間違い

5つの歪みの最後は、

「部分対立思想という歪み」だ。

物事の断片だけ見る部分観や、社会・歴史を闘争の産物とだけ見る二元対立観などによって、狭い考え方が蔓延(はびこ)り、人間そのものが小さく小粒になってしまった。西洋から入ってきた利己的な個人主義、科学によるシンプルロケイション(物事の単純化・部分化)などがその背景だ。

明治以来、学校で学ぶことになった「弁証法」が、それに拍車を掛けた。弁証法は、ある物事(正)に対して矛盾(反)が生じ、正と反の対立を超えて発展(止揚、アウフヘーベン)を期していくという「ものの見方」である。

この見方によって、物事の本質を掘り下げて行くことが可能となったが、その一方で、何でもかんでも矛盾・対立で見ようとする習慣が、次第に知識人に身に付いていった。

そもそも矛盾や対立は、物事の関係における一形態に過ぎない。確かに、自然界にも人間社会にも、対立や闘争は日常的に起こっている。が、それ以外に併存や共存、協力や互恵関係もある。むしろ、共生関係のほうが基本となっていよう。

歴史を見れば、地位や立場の違いを超えて協力し合うことは、普通に見られる現象であることが分かる。律令国家の建設期に編纂された「万葉集」を見よ。天皇から庶民に至るまで、身分を問わず全国民的に歌が詠まれていたではないか。階級協力の事実を、そこに見出すことが出来る。

対立観や闘争観でのみ世界を理解しようとすることの間違いも、これから正さねばならない。実は、この哲学思想の部分観に対する改革こそ、時間を要するが、一番根源的で最も有効な取り組みとなるに違いない。

「部分対立思想という歪み」

これを全体観に戻していくための綜合学問が重大である。

天地自然や人間・社会の変化活動を捉えたければ、弁証法という部分観に頼らなくても、東洋には陰陽論や無常論などが既にある。古事記を紐解けば、中心論や陽陰論による生成発展観がしっかり描かれている。もっと東洋・日本思想を見直そうではないか。

『古事記』と大和言葉〜中心陽陰論〜

古事記冒頭を紐解くと、日本の心がよく表わされているのでここで触れておく。

アマという大宇宙を捉える心、ミナカという中心や根源を尊ぶ心、 ムスヒという生成・創造の心、陽陰ムスヒの神という調和バランスの心、 ウマシアシカビヒコヂという成長発展の心、 アマツ神から「修理固成」という尊い使命を授けられたという宇宙と人間の一体心、 人間には尊い役割があるという人間肯定の心 オホゴトヲシオという大事業を推進する前に決意(目的の明確化)する心などがそれだ。

日本人元来の「ものの見方・考え方」がギュッと詰まっている。

更にもっと核心を述べると「中心陽陰論」が見出せる。

第一に「ミナカ」からはじまり、次に生じるのは「」である。 しかし、チャイナに伝来した時に「陰陽五行」というように、「中心」を尊ぶ心が喪われた上に「陰陽」逆転してしまったのだ。

それが更に西洋に伝わった時には、 「陰と陽」「精神と肉体」「神と人」「善と悪」「人間と機械」「芸術と科学」等の間に 「二元論」という深い断層が生まれてしまい、世界を覆う病理の根源となっている。

「中心陽陰論」という本義に立ち還れれば、部分対立を包み超えられるはずである。

国是を考える:その12150年かけて日本列島を日本庭園にする!

明治維新以来、150年間溜まった歪みを、もう一度おさらいしておく。それは下記5点であり、1・2・3に対応するのが、国是三綱領の「共生文明の創造」「高徳国家の建設」「公益経済の確立」である。

1「欧米中心主義という歪み」
~欧米を崇拝し、東洋・日本を卑下する〜

2「欲望民主主義という歪み」
~人民=君主と錯覚、横並びリーダー不在国家へ〜

3「膨張資本主義という歪み」
~お金が全て、無限成長の呪縛にはまる〜

4「東京一極集中という歪み」
~地方の優秀な人財はひたすら東京へ〜

5「部分対立思想という歪み」
~部分しか見ない、社会を対立闘争観で見る〜

これら150年に亘って蓄積された歪みを正すには、同じ年数の150年が必要となるだろう。3年かけて悪くなった症状は、治すのに3年を要するようなものだ。その150年かけて実施する取り組みを、「新日本創成論」と名付けてみた。

※ただし、地球の4次元化と個々の尽力により、より加速実現する可能性は大いにある

実は新日本創成論は、松下幸之助翁が提唱された「新国土創成論」の理念をベースにしている。新国土創成論は200年かけて「自然知」に従いつつ、日本列島を災害に強く、美しい日本庭園に変えていくという構想であった。

自然知とは、自然が本来持っている英知のことで、天地に順応しつつ万物が共存共栄する働きを指している。気象や生態系を考慮しつつ自然に手を加えることになるのだが、それは人間に与えられた役割であるというのが松下幸之助翁の考え方であった。

このことが古事記では「修理固成(修め理り固め成せ)」と示されているのである。

当初、新国土創成論は人口増と土地不足が背景にあったため、山を削って海を埋め立て、土地を増やせばいいという単純な国土開発と混同されたフシがある。だが、人口減と土地余りになってきた今こそやるべき構想なのだ。

窓から見える都会の景色をご覧頂きたい。100年も経過したら、今見えている景色は全て変わる。一部の歴史的建造物などを除いて、悉く作り替えられてしまうのである。そうであれば、無秩序に建て替えるのではなく、理想に向かい、都市設計の方針に従って国土を建設していってはどうか。そうすれば、時代が進めば進むほど日本は益々美しくなる。

この構想は、内需を充実させ、公益経済の元になる。そして、観光立国が進み、地方を再生する基盤ともなるのである。計画には、十分な時間を掛けねばならない。地方再生の計画と連動させながら、まず緊急を要する所から着手すべきだろう。崖崩れが起きそうであったり、河川氾濫に襲われそうであったりする集落や団地、津波が心配される海岸線など、急がねばならない箇所が全国にある。

問題は新日本創成の財源だ。国家財政の再建という難問題を、どう乗り越えるかだ。国民こぞって知恵を絞り、“お金の工面”を考えねばならない。その際、そもそも通貨とは何なのかという原点から問い直すことも必要だろう。兎に角、このまま儲かるところにしかお金が集まらないという状況を続けていくようでは、貧富の差はさらに広がる一方だ。

人間はお金の奴隷ではなく、主人公とならねばならない。一つの方策として、公益や利他の行動にポイントが付く「新しい通貨」の発明も必要だと思う。公益経済が進み、高徳国家が建設されるためにも。また、松下翁が提唱されていた「無税国家論」の精神も、子孫にツケを残さないために生かすべきと考えている。

日本は、このまま終わらない!内需公益経済が栄え、人口増・人口安定へ転換する日が必ず来る!

国是を考える:その13日本史には5個の「山」がある

明治維新以来150年かけて歪んでしまったものは、修正するにも150年かかると述べた。150年間の持つ意味は、これ以外にもある。それは、世の中には政治・経済・文化などが一括りにまとまった「SS(社会秩序、ソーシャルシステム)があり、その成長期が概ね150年間を要するということだ。

SSの例だが、日本史の場合、これまで下記5個のSSが存在した。

(1)上古SS(大和朝廷による古墳時代)

(2)古代SS(律令体制の奈良平安時代)

(3)中世SS(前期武家社会の鎌倉室町時代)

(4)近世SS(後期武家社会の織豊徳川時代)

(5)近代SS(明治・大正・昭和の敗戦まで)

これらを見て、あることに気付かれないだろうか。基本的に歴史教科書の区分(目次の部や章)と重なっているという点だ。一括りにまとまっているSSは、まさに一固まりの波動であり、歴史の一山(ひとやま)なのだ。SSには長短があるが、世界のSSを調べると平均は約300年であった。長さはまちまちとなるが、一山であることは確かである。

日本史上5個目のSSは、明治・大正・昭和敗戦までの近代SSで、このSSの寿命は約77年。平均300年という長さからすると、実に短命であった。だが政治・経済・文化の推移は一山になっており、一続きでなければならないというSSの要件を、コンパクトにしっかり満たしていた。

戦争で大敗し、
戦勝国の支配下に置かれながらも、
復興を果たした日本人

戦後はどうか。西暦1980年代に入る頃まで、根性と努力によって上昇しようという気運が社会に満ちていた。戦後復興期から高度成長期、安定成長期にかけて経済成長期となったのは、本当に国民的努力の賜であった。その後、安定成長期後半にあたる80年代からバブル期(1986~1991)までが繁栄の頂上となり、傲慢で享楽的な心理が世を覆った。バブル崩壊後は「失われた20年」となる。一転して自信喪失の閉塞の心理が社会に漂い、日本人は小粒化していった。

この戦後史を見れば、戦後復興の上り坂、バブル期の頂、それ以後の下り坂と、一つの山らしきものが認められる。だが、SSとは容認し難い。なぜなら、戦後日本は事実上アメリカ占領下に置かれ続け、確固たる国是や国家目標を持つことは許されなかったからだ。自立無くして真の国是無く、真の国是無くしてSSの誕生と成長無しである。

戦後、文化的にはテレビの普及がその基盤となり、全国民がアニメやドラマなどの影響を強く受ける庶民文化が流行した。それらの番組は短命で軽薄なものが多く、500年、1000年の後に残るものは殆ど無い。膨張資本主義の中で視聴率を上げなければならないのだから、一時の流行で終わるのは仕方ないことだが。

やがて閉塞感を脱し、何とか目覚め出すのは2010年頃。リーマンショックや尖閣諸島問題、さらに東日本大震災の発生などによって、少しずつ危機の心理が起こってきた。

これらをまとめると、アメリカ占領下に置かれながらも焼け跡からの復興を果たし、1億総テレビ文化の一時代を築いた戦後日本には、「準SS」らしきものが存在していたということになる。戦争で大敗し、戦勝国の支配下に置かれながらも「準SS」を創ることが出来たとすれば、国民の優秀さをよく証明してくれる事実となるだろう。

「大国民運動」によって、情熱に満ちた国民心理を勃興させよう!

さあ、これからどうしたらいいのか。まず、2020年代に「新日本SS(新しい日本の社会秩序)」を誕生させねばならない。そのためには「大国民運動」が必要だ。国是担当政治家団や公益経営者群、さらに全国の国民・志民らが一体となって、情熱に満ちた国民心理を勃興させようではないか!「新日本創成論」の計画も、具体的に練っていこう。

既に述べた「共生文明の創造」「高徳国家の建設」「公益経済の確立」の国是三綱領のもと、新日本創成の計画に十分な時間を取りつつも、災害対策など優先順位の高いものは早期に着手し、日本を強くて安心、美しくて住み易い国家に再生させていくのだ。

そうして、2020~2100年の間に、新日本SSの“骨格が形成”されることになる。その中に、新日本憲法の制定や、分都と地方分権、空き地や空き屋をヤル気のある若者に提供する「新・班田収授」などが含まれるだろう。とにかく新日本創成によって内需公益経済が栄えれば、必ず人口増へ転換する日が来るはずだ。

これに続く2100~2170年は、SSの“肉体的成長期”となる。地方が甦り、人口は安定するだろう。やがて、日本国の文明システムが世界中から注目され、日本人の精神性や哲学思想が世界中に広まること間違いなしだ!

特にこれから、原日本語たる「大和言葉」の言霊が全世界でほとばしることをここに予言しておく。

国是を考える:その1321世紀の坂本龍馬や西郷隆盛を捜せ!

さぁ、問題は「誰がやるか」だ。

国是三綱領も新日本創成論も、それを実行する者がいなければ、絵に描いた餅で終わってしまう。その「誰がやるのか」に対する答を出すため掲げたのが、「国是:修理固成」だ!

即ち「令和の坂本龍馬1000人構想」だ。

21世紀の坂本龍馬や西郷隆盛を捜せと。

幕末維新期から明治の近代国家建設期にかけての激動期を見よ。変革期の日本を支えたのは、主に下級武士出身の志士たちであったという事実がよく分かる。

それまで続いた旧い社会秩序の担い手、すなわち上級武士らは一般に平凡化し、既得権益を守ることにし関心を持たなくなっていた。彼ら既得権益を保持しようとする連中の、その一段二段下に属している階層が下級武士であり、彼らこそ変革期の主役であった。

下級武士には、サムライとしてのプライドはあるが、守らねばならない格式が上級武士ほど高くはない。その分、フットワークが良く、新しい国家建設に立ち向かう機動力を発揮することが出来たのだ。

橋本左内、吉田松陰、坂本龍馬、勝海舟、西郷隆盛など、多くの一流の志士たちが下級武士出身者であった。明治の指導者も、桂太郎、小村壽太郎、高橋是清など、下級武士出身者が沢山いた。日本改新や文明維新を担う“現代の下級武士”は必ずどこかに潜んでいる。必ず見つけ出し、登用し、大きなうねりをおこす変革者たれ!

国是を考える、以上!

ばらばらに点在した我々を
一箇所に吸い寄せた「不可能な大事業」こそが、

力を重ねて取り組むべき課題なのでは…

この時代の必然を運命と呼ばず、

なんと呼ぼうか。

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