秘密曼荼羅十住心論

修理固成
Cre888
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24 min readNov 16, 2018

◇心の進化、その十段階のプロセス◇

空海の思想を集大成させた著書が
『秘密曼荼羅十住心論』である。

『秘密曼荼羅十住心論』、略して『十住心論』には、空海による独創的綜合思想がよく示されている。「住心」は心の住むところであり、段階を経て向上している。

空海は「住心」を十段階に分け、「心の進化プロセス」とした。『十住心論』には、これまで封印されていた「日本人の使命」を解くカギが隠されている。では、その要点を述べていく。

動物的な本能のままに生きる段階で、倫理以前の世界。この段階の人たちは、利を貪り欲のみに生き、他者を攻撃し、また他者から排撃され、憤怒や嫉妬の世界にはまって苦しんでいる。

「第一住心」に付けられた名前は 「異生羝羊心」 (いしょうていようしん)

「羝羊」は雄羊のことで、人々は雄羊のように食欲と性欲が旺盛。欲望が盛んなため、世の中に煩悩と悪が満ち、互いに眼前の利を貪っては争い合うことになる。レベルの低い政治の世界などが、これにあたる。

「異生」には、さまざまな「異」なった世界に形を変えて「生」まれ変わるという意味と、聖者と「異」なる「生」類、つまり成長することのない凡夫という意味がある。

この第一住心は、永遠の輪廻の苦しみを繰り返す倫理以前の世界であり、次の段階へ上がるためのカギは 「善心」

※なお、すべての段階に向上のカギがある

道徳心が芽生え、善いことをしたいと思うようになる段階。善心が芽生えてくる倫理的世界であり、人に物を施す心、社会における善なる心が起こる。

勿論それは良い心なのだが、他人に良く思われたい、認められたい、誉められたい、自慢したいという、子供じみた心にも覆われている。だから、他人の欠点が目に付き、常に誰かを裁こうとすることになる。

第二住心に付けられた名前は 「愚童持斎心」 (ぐどうじさいしん)

「持斎」とは斎法を守ることで、その一つに、正午を過ぎたら食事を摂らないという規則がある。午後に食事を摂らなければ、自分の食べる量を減らして他人に施すことが出来る。それが人に物を施す心、善なる心となる。

但し、それは目に見える回りに対してのみであり、立身出世主義者や偏狭な道徳家になり易いという問題点がある。それから「愚童」は愚かな子供のこと。

第二住心から第三住心へ移るためのカギ、それは 「宗教心」 。カギを手に入れなければ、永遠にその段階で終わってしまう。

宗教心に目覚め、神様や仏様が守ってくれるから大丈夫という気持ちになる段階。そこには、おのれを包む大なるものへの依頼心があり、来世に天上界に生まれることを信じ、生死の不安から離れられた人たちが「住むところ」となっている。

但し、何となく救われた・安らいだという感覚が生じた状態に過ぎず、そこで得られるものは一時の安らぎでしかない。「神様が守ってくれるから本当にハッピイなの」といった幼稚な宗教心であり、観念的に何となく救われたという安心感が漂っている”癒し系”レベルの段階なのだ。

この第三住心は 「嬰童無畏心」 (ようどうむいしん)と言う。

「嬰童」は幼子、「無畏」は畏れの無い様子。母親に抱かれた、幼子のような安心感が嬰童無畏心。

第三住心から第四住心へ進むためのカギ、それは 「否定」 。一度自分を否定してみることによって、この幼な心から抜け出さねばならない。

◇ああ自分は・・・

なんて自己中心的で小さかったのだろう…◇

空海の説いた十段階の「心の進化プロセス」、それが「十住心論」。「住心」は心の住むところであり、その第三住心まで解説した。

第一住心は、道徳心や宗教心が乏しく、欲望に従ってのみ生きている動物的段階。第二住心は、道徳心は起こってきたが、人から立派に見られたいという表観が強く、子供じみた自己顕示欲に覆われた段階。第三住心は、宗教心に目覚めてきたものの、神様が守ってくれるから安心といった程度の、幼児的な安心感の段階、ということ。この第三住心までが、世間的な人間心の段階。

これに続く「第四住心」から、仏教による心の進化プロセスに入っていく。

否定と疑問の心によって、第三住心までの童心(小児的な意識)を去る段階。子供が素晴らしいのは、その素直な心にある。だが反面、自己中心的でもある。「ねえ聞いてよ、ボクはね…。こっちを見てよ、わたしはね…」というふうに、常に自分に注意を惹いて貰いたがっている。

子供ならそれでいいが、大人がそれでは頂けない。いくら道徳心や宗教心を持とうとしても、心が子供のままでは、つまらない自己顕示欲や幼児的な安心感から、なかなか抜け出せないままとなる。

そこで一度、「自分とは一体何者なのか」、「この自分は本当に存在しているのだろうか」、あるいは「立身出世に囚われている自分は、真の自分なのだろうか」、「何となく救われたという安心感に、ただ浸っているだけでいいのだろうか」、などと疑ってみるのだ。

そうして自分という存在を率直に客観視してみると、自己中心的で小さかった自分に恥ずかしささえ感じられてくる。これまで単に人から誉めて貰うために生きてきたことや、神仏に救われているという感覚に酔っていた小児的な自分に気付いてくるというわけだ。

人生に脱皮は必要だ。一旦、過去の自分を否定することが出来れば、きっと殻を打ち破るきっかけともなるはずだ。

但し、第四住心に到っても、まだ関心が自分のことに留まっており、自己一身の救いと向上が生きる目的になっている。否定と疑問によって一応見識は高まるのだが、何かを語ったとしても、いわゆる批評家止まりで自己確立されたものは殆ど無い状態。

この第四住心は、 「唯蘊無我心」 (ゆいうんむがしん)と言う。

「蘊」は積み集められた物のことで、この世に実在する物は全て「蘊」過ぎない。従って「唯蘊」は、ただ物のみが実在するという意味。ただ物しかないのだから、自己という特別な存在は否定される。この世には、ただ物のみが実在していて、そもそも個別の我(自分)なんて無いと。それが「唯蘊無我」。

少し専門的な解説を加えておくと、第四住心は仏教の入門段階にあたる「声聞乗」、つまり声(教え)を聞いて悟る段階に相当し、奈良仏教の具舎(くしゃ)宗と成実(じょうじつ)宗が、これに属している。

次に進もう。第四住心から第五住心へ移るカギ、それは 「因縁」 。因縁の「因」は直接原因、「縁」は間接原因のことで、無我の向こうを因縁によって悟る。

自分なんていないというのが「無我」であったが、その向こうを悟るとは一体どういうことか。兎に角それが「第五住心」。

一旦否定された自分の、もっと奥に存在している自分、言い換えれば因と縁で成り立っている自分に気付いていく段階となる。

確かにこの身は、一切の因縁によって成り立っている。天地自然や人間社会の、あらゆるものに囲まれ、多くのご縁を頂きながら生きている。それを理解しなければ実際の自分に気付けず、自己否定から脱却できない。なお、その気付いていない状態を、無知・無明と言う。

但し、この段階も、未だ自己一身の無知・無明に対する自覚が主であって、きちんと人々の役に立ったり、世の中に何かを伝えたり・教えたり、というところまでいかない。自己一身の悟りであり、人々を教化し利益(りやく)するということがないのだ。

第五住心は、 「抜業因種心」 (ばつごういんじゅしん)と言う。

因縁を正しく自覚することによって、悪「業」の原「因」となる無明の「種」を「抜」き除くという意味だ。

これも専門的な説明だが、この因縁による悟りが「縁覚乗」。縁覚は「独覚」とも言われ、師の教えによらないで「独」力で因縁を「覚」ることだ。

さて、せっかく「因縁によって構成されている自分」を知ったのに、第五住心レベルのままでは、自己中心的(自利)な自己満足の状態に留まってしまう。

さらに一段上の第六住心へ行くためには、 「唯識」 というカギを使わねばならない。心を広げて、いよいよ人の役に立ち、世の中の役に立とうとする段階へ進むのだ。

◇自分だけ幸せになっても仕方ない、

ということに気付けるかどうか◇

自分だけが救われる小さな乗り物、それを「小乗」と言う。自分一人ではなく、仲間と一緒に救われていく大きな乗り物、それが「大乗」だ。釈尊の説いた慈悲の心を実践するためには、当然のことながら大乗に立たなければならない。その大乗精神への入り口が「第六住心」だ。

第六住心は、人の役に立ち、世の中を変えようという、利他の慈悲心を起こす段階だ。この次元に入れば、自分の心を広げ、あらゆる命あるものに対して愛情(一切の衆生への愛)を持てるようになる。

既に第二住心でも、善いことをしたいという心が芽生え、人に物を施し、社会の役に立ちたいという善心が起こっていた。でもそれは、他人から認められたい・誉められたいという、自己中心的な童心が己を支配していた。この第六住心になれば、我を忘れ、自分は後回しでいいから誰かのため・何かのために生きたいといった、自分を超えた利他心のレベルに到達できる。

世のため・人のために努力しているものの、まだ何かが足りないという人を見受けることがある。そういう人は、我を忘れて利他に生きるということが結局出来ず、取り巻きにちやほやされ、お山の大将でいることに自己満足するという童心から、なかなか抜け出せないことが原因だと思われる。

第六住心へ上がるためのカギは「唯識」だ。

唯識は、全ては意識作用の現れであるという、いわゆる唯心論の見方のことだ。あらゆる存在は心が現象化したものである、という立場に立っているのが唯識論や唯心論。大宇宙は宇宙意思の現れ、地球の成立は地球存立意識の現れ、人類の誕生も人間使命の現れということになる。

唯識によって全てが精神の現れであるということに気付くと、今まで自分を覆っていた固定観念が取り払われていく。固定観念というのは、自分は自分、他人は他人、これはこれ、あれはあれというように、物事を分けてしまう心の垣根のことだ。

心によって作られていた垣根は、心によって消えていく。唯識の働きでそうなれば、心が広がる。遮っていたものが無くなって、もっと心が広がるのだ。

その結果、やがて自己への執着を超えられるときが来る。あらゆる生きとし生けるものである衆生の存在に気付き、自分だけ幸せになっても仕方ない、衆生と共に歓喜に生きねば意味が無いという、大乗の心や慈悲の心が養われて来るのだ。

その心が、身の回りから始まって、いろいろなご縁である「他縁」へ広がっていくわけで、これを「他縁大乗心(たえんだいじょうしん)」という。

但し、この段階では、まだ表観(表面的な観方)に囚われている。人々の素質や能力を区別し、どうしてもその違いを差別しながら見てしまうのだ。その差別観が元になって、能力や修行の差を踏まえつつ、誰もが仏になれわけではないとする見方に立つことになるのが第六住心。

奈良仏教では、法相宗が第六住心に相当する。大乗に生きる菩薩(ぼさつ)の教えと唯識哲学を合わせたのが法相宗で、大陸では揚子江以北に伝わった宗派だ。

先へ進もう。第六住心から第七住心へ向かうカギは

「空(くう)」。

◇「空」によって、

区別や差別を超えていく◇

「第七住心」は、【「空」の哲学】によって、第六住心で生じた区別や差別を超える段階。第四住心の「自己の否定」に続き、この第七住心では「一切を空であると否定」する。空によって有無(うむ)の執着を離れ、この世界に固定された実体は無く、全ては空であるということを悟る。

即ち、主観を徹底的に排除した大客観と、現象の奥を感得した大裏観によって、一切の存在が儚(はかな)く空虚であるという事実を掴むのだ。よくご覧頂きたい。あらゆる存在は無常であり、留まることなく姿を変えている。

だから一切の実体が空であり、そもそも区別も差別も無いのであると。

こうして、2回目の否定で再度殻を破る。もう一度囚われを捨て去ることによって、世界を深く捉え、さらなる成長を目指していくのだ。

なお、第五住心のところで「因縁」という言葉が出てきた。「因」は直接原因、「縁」は間接原因で、因縁を正しく自覚することで、因縁によって構成されている自分を掴むことが出来るということをすでに述べた。

この因縁というキーワードが、第七住心でも必要になる。あらゆる存在が因縁によって生じているのであれば、その一つ一つの因縁を取り外していけば実体は無くなってしまう。

すると、元来「自性(じしょう)」は無いということになる。自性とは、固定的な実体のこと。

このようにして、一切は空無であるということが認識されるわけである。なお、第五住心と第七住心とでは因縁のレベルに差があり、第五住心は自己の因縁、第七住心は全ての因縁だ。

第七住心は「覚心不生心」(かくしんふしょうしん)と言う。

囚われの「心」を超えて「不生」不滅を「覚」る「心」という意味。この「空の思想」が教理の根幹となっているのが、奈良仏教の三論宗だ。

但し、このまま行ってしまうと、全てが空しくなって虚無主義ともなりかねない。世界は幻に過ぎない、この自分も本当は空虚。あまりに虚しくて、生きている意味が分からないと。

そこで、「空」をもとに、何を掴み直すか。即ち全てを手放した先に、掴み直すべき核心とは何か。

十住心論は、いよいよ最終段階へ向かってレベルを上げていく。次の第八住心へのカギは「仏性」

◇インテリに、ヤル気や情熱に

乏しい人が多いのはなぜか?◇

第七住心は、物事を区別したり差別したりする表観的な「囚われの心」を超え、生ずることも滅することも無い「空の世界」を覚る段階であった。でも、それが行き過ぎると、「空の思想」は虚無主義を導いてしまいかねない。

ところで、インテリ(インテリゲンチャの略、知識人・知識階層)にヤル気や情熱に乏しい虚無主義の人が多いように思われる。勉強熱心で知識豊富なインテリに、人生を虚しく感じる傾向が生ずるのはなぜだろうか? それは、学んだ中の「部分観や対立観などの思想」が「空と同様の否定観」に働いてしまい、せっかく頭に入れた知識が細分化・断片化されたままとなるからだ。

また、知識のみのインテリには、思考に深まりというものが見られない。単に「その用語は○○思想の中にもある」とか、「その考え方は○○哲学に似ている」とかいうように、表面的な類似性や関連性を認識するレベルで終わっていて、その人自身の生き方や信念に体得されるということが殆ど無いのだ。

これも結局、学問と人生が区別され、知識と信念が分断されていることが原因であろう。バラバラではなんの役に立たないどころか冷淡になるという害悪さえある。

学んだことと生き方が分離していたら何にもならない。区別された断片的な知識によって心は益々冷めていき、この世界に意味は無く、存在は幻に過ぎず、自分も結局空虚でしかないという虚無主義に陥ってしまう。

そこで、「空」をもとに、
それが虚無主義とならないよう、何を掴み直すか。

即ち、全てを手放した先に、

掴み直すべき核心とは何か。

次の第八住心へのカギは「仏性」。仏性とは仏陀、即ち「目覚めた人」になるための性質や可能性のことだ。目覚めるとは宇宙真理を悟ることですから、仏性は「宇宙と結ばれた個々の本性」と言い換えてもいい。

既に第七住心のところで、固定的な実体が無く一切が空であることを識った。一切が空であれば、滞りも凝り固まりも無く、本来この世は清浄である。世界が清浄であれば、全てに仏性が行き渡る基盤となる。そして、仏性があれば、救われる可能性において、一切は平等となるのだ。

第八住心は、「一道無為心」(いちどうむいしん)と言う。

「一道」は唯一絶対の仏の道(教え)、「無為」は為作(わざと為し作ること)の無いことだ。第八住心は清浄なるがゆえに、低次元な因縁による為作を超えられるのである。

その救いのための、一切を乗せる大きな乗り物がある。それを「法華一乗(一仏乗)」と言う。第八住心は、全てに仏性が宿されていることを悟る段階であり、宗派としては天台宗に相当する。

では、その仏性の大本とは何か。それを解明するのが、第九住心へのカギである「統一」だ。

◇全ては一つにまとまり、

一つの中に全てが生かされている◇

仏性は「宇宙と結ばれた個々の本性」のことだ。全ての存在に仏性が宿されており、誰でも「目覚めた人」になれるということを悟る段階が第八住心であった。続く「第九住心」では、その仏性の大本を「統一」というカギによって究明していく。

統一は「一つに統(す)べる」、つまり一つにまとめるということだ。一つにまとまれば、それが全体となる。大和言葉では、全体を「全て(すべて)」と言う。

「すべて」の「す」は進む・鋭いの「す」
「へ」は辺(へ)・舳先(へさき)・縁(へり)の「へ」
「て」は手・照る・出るの「て(で)」。

先頭を進む「す」と周辺の「へ」が、「て」で結ばれている様子が「すべて」(全体)。「統べる」と「全て」は同根語だ。

宇宙にこの「統一」というカギを当てれば、一体何が見えてくるのだろうか。それは、全てに仏性を与えている大本(統一の根源)であるところの毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)だ。毘盧遮那仏は、宇宙太陽仏とでもいうべき「光の仏」であり、東大寺の大仏様が有名である。その毘盧遮那仏が遍く照っているから、全てに仏性が宿されることになる。

なお、宇宙に広がる光のエネルギーを、大和言葉ではミイツ(御稜威)と言う。また、宇宙全体に飛んで行った一つ一つの超微粒子のことをナホヒ(直霊)と言う。ミイツもナホヒも、その大本は、大宇宙根源神であるアマノミナカヌシの神(天之御中主神)だ。

アマノミナカヌシの神は、次の第十住心のところに出てくる大毘盧遮那仏(だいびるしゃなぶつ、マハー・ビルシャナ)に当てはまる。

全世界に毘盧遮那仏の光が遍く及んでおり、一切が大宇宙根源から広がったものならば、全てに仏性が宿されていて当然だ。だからこそ、全てに救われる可能性があるというわけである。

そして、仏性を頂いたあらゆる存在は、元々大宇宙の根源から分かれたものですから、組み合わさり、関わり合い、絡み合うのは当然である。必要な要素が組み合わさることで成立している個々が、それぞれ自性を発揮しつつ、さらに個々同士が組み合わさって、もっと大きな全体として統一されていくのだ。生命体・生物群・生態系などが、その典型的な例。

兎に角あらゆる有機的な存在は、一つの全体として組み合わさり、統一されて成立している。全ては一つにまとまり、一つの中に全てが生かされておりいる。まさに小宇宙であり、一即多・多即一という生命的世界観がそこにあるのだ。そうして、全ての存在に価値と意味があるという大肯定の精神が生まれていく。

この第九住心は「極無自性心」(ごくむじしょうしん)と言う。

「無自性」は、全体が組み合わさり刻々と変化しているから、固定的な自性が無いという意味だ。「極」は、顕教としては至極の教えであることを示している。宗派では、第九住心は華厳宗に当たる。

第九住心に到り、世界が一つに統一されていることを悟った。大宇宙は、その根源の働きによって光に満ちていることも掴んだ。

さあ、ではどう生きるか。

第九住心までは、第十住心の因。
第十住心へのカギ、それは「宇宙」∞「即身成仏」である。

◇大宇宙と自分を結び、

生命と人間を大肯定する知行合一の教え◇

もう一度、顕教と密教について述べておく。顕教は人間仏陀が教えた“普通の仏教”のことだ。それに対して密教は、顕教の背後にある根源仏が示す教えだ。根源仏とは、大宇宙の根本原理である大日如来のことであり、根源仏から直接示される教えが密教である。

住心で言うところの、第一住心から第九住心までが顕教で、第十住心が密教となる。また、第一住心から第九住心までは第十住心の元となっているので、第一から第十までの全部が密教ということになる。つまり、顕教の全てを包含するのが密教というわけである。

「第十住心」は、自己が大日如来=大宇宙の根本原理と結ばれ、心が宇宙大になる段階だ。そこに到達すれば仏陀、即ち「目醒めた人」となる。その仏陀になるための性質や可能性を、仏性と呼ぶことは既に述べた通りである。

この自己が大日如来と結ばれることを「即身成仏」と言う。大宇宙と一体であるということに目醒めれば、自分は大宇宙進化の先頭に立っていることになる。その自覚によって、大宇宙に働く生成発展の力を得れば、思う存分、天命に生きていくことが可能となるのだ。

この身のまま仏と成り、大宇宙の原理や真理そのものに従って生きていくのだから、感性が鋭敏となり、本質を見抜き、未来を察知し、まだこの世に無いものを創造するなど、自由自在の力を得るのは当然だ。密教で超能力が開発されるというのは、即身成仏の結果に他ならない。

第十住心は、「秘密荘厳心」(ひみつしょうごんしん)と言う。

秘密にして簡単に説かれることはなく、もしも理解の浅い人が知ると自由自在の力を乱用してしまい、極悪人となり地獄に落ちるかも知れないとのこと。「荘厳」は荘重で威厳があることであり、重々しくて尊い秘密な状態を意味している。

大日如来は、大毘盧遮那仏(マハー・ビルシャナ)とも呼ばれる。第九住心のところで出てきた「光の仏」である毘盧遮那仏の、さらに大きくなった最高の宇宙太陽仏が大毘盧遮那仏である。古事記冒頭に登場する大宇宙の根源神であるアマノミナカヌシの神(天之御中主神)が、大毘盧遮那仏にほぼ相当することになる。

自分が大日如来と一体であることを自覚すれば、我は大宇宙活動の中心に立っているということになる。大宇宙進化の前衛に立っている自分がいかに尊い存在であるかを大自覚し、自己の大肯定、即ち生命の大肯定が起こり、大歓喜の人生がはじまるわけである。

そうして一人一人が自己を大肯定していけば、全人類がこぞって成仏することが可能となる。それが密教の威力であり、しかも、そこがゴールではなくスタートであるところに、空海の教えの真価があるのだ。修行の果てに悟ったものの、そこで寿命が尽き果てるのでは何にもならない。即身成仏してからが人生の本番・本舞台なのだから。

この十住心論は、儒教、道教、仏教などの東洋思想を幅広く網羅し、仏教においては諸宗派の教えと教典を統合した、空海独自の綜合思想であった。まさに空海は、綜合學問の先達であり達人であったとも言える。

こうして、全人類をまとめて進化(成仏)させるところに、密教の本質があるのである。大宇宙と自分を結び、生命と人間を大肯定する知行合一の教えが、空前絶後の巨人である空海によって説かれていたのだ。

◇空海の生まれ変わりが出現すべきとき!◇

それにしても、唐に学んだ空海は、なぜ日本に帰ってきたのだろうか。

いくら高僧の恵果から密教の全てを受け取ったとしても、そこからの活躍は唐に在ってこそ果たされると考えるのが自然なはずだ。元々20年の留学期間が認められていたのだから、誰に遠慮することなく長安を拠点に活動出来たはずである。

ところが、空海の留学は事実上のたった2年でトンボ返りとなった。

「虚しく往きて

実ちて帰る。」

と述べ、そして、密教を日本で集大成させることになる。活動の場が日本でなければならなかった意味は、一体何だったのかと。その答が分かるのは、いよいよこれからだという氣がしてならない。

それは、空海の業績は封印されていると思えるからだ。命がけで日本に刻み遺した真の念い、その本懐を、これから我々が掴み直さないといけない時代が来ているのである。

空海は、宗派を超えて教理を受け入れてしまう寛容の人・綜合の人であり、全体観の人であった。その教えは、十住心論に見られるように実に壮大なのであるが、今のところ空海を超える人物は現れていない。最澄が起こした天台宗からは、後に法然、親鸞、栄西、道元、日蓮ら名高い開祖が現れたのと対照的だ。空海がまとめた教義と行法の完成度が、あまりにも高かったことも、なかなか師を超えられない理由の一つでろう。

現代社会は、あまりにも部分観や個人主義、唯物論に覆われている。部分観で行き詰まった世界は、同じ部分観では解決しない。利己的個人主義で小粒になってしまった日本人は、個人主義のままでは全然救われまい。唯物論で曇ってしまった「見えない世界」を観る目は、唯物主義のままでは少しも晴れまい。「超個人主義」の要請である。

だからこそ、これから新たに大宇宙と結び直すことが必要だ。日本人が本来持っていた、現象の奥に潜む真理を見通す眼力が求められる。現代日本が抱えている哲学的な限界を超えていくところに、空海の思想の意義があるのだ。

その綜合性を余すところ無く理解し、それを21世紀に否、22世紀やそれ以降まで通用する形に再創し、根源的な哲理によって世界の混迷を救う大思想家が、空海の生まれ変わりとして出現すべき時代であると念えてならないのだ。

従って、密教が日本で集大成されたのは、これから人類が危機を迎えた時、日本から世界人類を救う大思想を打ち立てるため!そのために、空海は日本に帰ってきたのだ。

日本に帰っても理解できるものはいるはずないのに。日本人を捨ててそのまま長安で、栄華をほしいまま極めてもおかしくなかったのに。それでも、帰って来なければならなかった。

それは、やがて日本が世界を救う時が来る。その時にむかって大事な礎を日ノ本に刻み遺す。

これぞ、空海の志。

これは長い長いミッションのはじまり。

空海は、宇宙のソース(源)とつながり、
この先の宇宙の大きなプロジェクトの意味を理解し、

今の時代に花咲くための

種を蒔いたのであった。

空海が活躍した8世紀から
実に1200年の刻を経て、

今こそ聖徳太子レベル、空海レベル、熊楠レベルの
真言密教の継承者・歴史を彩るスーパースターが

これから雲のように湧き出してくる!!

空海が遺した密教は時限発火装置であり、
時代を突破する大思想家をこ れから出していくという
大いなる計画であるに違いない。

だからこそ、

心を宇宙大にし、

念う存分「天命」を生きよ!!

いち早く【即身成仏】し、

【宇宙進化】の先頭に立て❗️

これが空海が我が国に遺した遺言であり、

南鵬として「修理固成」を宣る本懐である。

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