#けものフレンズ考察班の死

オダ
Cubit_c
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11 min readApr 11, 2017

2017年4月4日。新作映像の制作が決定したアニメ『けものフレンズ』12話から1週間後の火曜日。日付も変わって深夜1時になると、【#けものフレンズ13話】というハッシュタグがツイッターのトレンドに現れました。しかしご存知の方もいらっしゃると思いますが、『けものフレンズ』は12話が最終話つまりすでに放送が終了したアニメ作品です。ですから【#けものフレンズ13話】というこのハッシュタグは、ファンの間で放送中の番組の感想や考察を共有するために使用されていたわけではありません。『けものフレンズ』の放送が終わってしまった、という現実に対する自身の抵抗感や逃避願望を、社会不適合という古典的なオタク的性格と重ね合わせるようにして、ファンがネット上に持ち込んだ自嘲行為です。【#けものフレンズ13話】に象徴される〈終わらないけものフレンズ〉という幻想はさして珍しくもない、狂気を気取ったアニメファンの戯れのように見えるかもしれません。しかし実際には、『けものフレンズ』という作品のテーマそのものをえぐるような位置で、永遠に訪れることのない13話が『けものフレンズ』とその考察を取り巻くファンの愛を延命しているのです。そう考えるならば、ひとたび完結した『けものフレンズ』という作品をファンの熱いまなざしとともに捉え直すことができます。

『けものフレンズ』の論考を書くにあたって、欠かせないと思われる先行資料があります。それは【#けものフレンズ考察班】という、ツイッター上で繰り広げられるハッシュタグによるデータベースです。その人気は疑いようのない『けものフレンズ』ですが、ブログ『animereal』によれば、アニメ『けものフレンズ』は、4話放送から5日後の2月6日に、爆発的な流行を決定づけられたようです。実際、『animereal』に掲載された「けものフレンズ」をキーワードにしたGoogleトレンドのグラフは6日の午前を機におおきく上昇しています。

ツチノコのフレンズが(『けものフレンズ』では動物モチーフのキャラクターを「フレンズ」と呼称します)サバンナ、ジャングル、高山といったような自然的な舞台から剥がれ落ちたように砂からむき出しにされたコンクリート製のバイパスの上で、ヒトのフレンズである主人公のかばんちゃんを遠目にポケットに手を突っ込みながら「あいつ、絶滅していなかったのか」とつぶやくシーンで問題の第4話「さばくちほー」は幕を閉じます。第4話を機に生じた急激な人気上昇の原因は、このシーンによって『けものフレンズ』が牧歌的でゆったりとした背景音楽とともに進んでいくストーリーと5頭身のキャラクターたちの呑気な言い回しに満ちた日常系アニメから、ヒトが絶滅した後、荒廃し孤立したテーマパークで繰り広げられるディストピア・アニメへと変貌を遂げたことにあります。

この変貌に当惑した視聴者は、作品の深奥をつかもうと試み、アニメの細部に至るまで、毎話ごとに各カットや断片的なシーンに注目した考察を繰り広げるようになりました。彼らの考察の数々が一大データベースとなって【#けものフレンズ考察班】に結集しているのです。『けものフレンズ』の論考であると思ってこの記事に目をつけてくださった読者の皆さんはひょっとすると、これら断片的な考察の数々を一本の糸でつなぎ合わせた知の結集としての「けものフレンズ論」を期待されているかもしれません。しかし、ここで私が思いを馳せたいのはそのような既存の断片的なネットの知の結集ではなく、まずは考察の気流それ自体に乗ることができなかったファンの心のうちです。もちろん、論を進めていくために考察班の意見を引き合いに出していくことは厭いませんが。

考察の隆盛に反し、【#けものフレンズ考察班】という次第に膨張してゆくデータベースを忌避、拒否してその考察をめぐるムーヴメントに冷めた目を向けていたファンの潮流があります。彼らは「たのしー!」「すごーい!」というワンフレーズで共有できるパッションだけでこのアニメの魅力を享受するには十分であると主張します。メインキャラクターのひとりであるサーバルちゃん(サーバルキャットのフレンズ)が冷めた表情で「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」と吐き捨てる二次創作の画像が、考察班の熱狂に染まれないその心のうちをわかりやすく示しているといえるでしょう。日々累積する考察を拒否する共感派と、共感だけでは不十分だとする考察班。両者は一見すると正面から対立をなしています。ですが考えてみましょう。アニメのオープニング・テーマ「ようこそジャパリパークへ」が「けものはいても のけものはいない」と友愛を謳っているにも関わらずファンの間では、共感派が考察班に冷水をかけようとする、あるいは考察班が『けものフレンズ』をメタファーの塊として鑑賞しない共感派を見下す、といったように互いが互いをのけものとみなしあうという敵対関係が生じています。この見立ては少し意地悪かもしれませんが。

もう一度例証として挙げることになりますが、オープニング・テーマで「姿かたちも十人十色 だから魅かれ合うの」とまで謳い、ジャパリまんというフレンズ全員共通の食料によって食物連鎖の関係が棚上げされた、けもの同士の友愛の空間ジャパリパークにおいて繰り広げられる『けものフレンズ』の世界。ファン自身図らずもその間に対立が生まれてしまった一方で、作中ではけもの同士の捕食関係あるいは敵対関係は一度も描かれません。ファン同士の対立をアニメ内の言葉で言い換えれば共感派にとっては考察班はけものにあらず、考察班にとっては共感派はけものにあらず、ということになるのでしょうか。とにかく、けものが一人一人「フレンズ」と呼ばれるように、けもの同士には捕食関係も敵対関係もありません。「セルリアン」を除いてほかは、フレンズたちの友愛を妨げるものはないと言ってしまってかまわないでしょう。

セルリアンとはジャパリパーク内に登場するスライム状の生命体です。けものたちを捕食する、いわばけものたちにとっての天敵として描かれているセルリアンですが、アニメで登場しただけでも青色のネジ型、ワニクリップ型、紫色の砲弾型などがあります。11話「せるりあん」ではBigdog(米製の軍用四足歩行ロボット)を模した大きな黒いセルリアンが現れるのですが、この黒いセルリアンが従来のセルリアンと一味違うのです。セルリアンハンターのキンシコウやヒグマの手によって追い詰められたかのように思われた黒いセルリアンは、その後自己修復・巨大化を働いてもはや彼らの手におえないほど強大な生命体となりました。かばんちゃんを含むけものたちは、光を目指して動く、水を嫌うという黒いセルリアンの特性を利用して、日が暮れたのちに海まで黒いセルリアンを誘導しようと計画します。最終話までけものたちの敵として描かれ続けるセルリアンですが、情報を付け加えながらここでその特性を一度整理したいと思います。

先ほどセルリアンはけものを捕食すると述べましたが、それには少し語弊があります。セルリアンの体内に取り込まれたけものたちは記憶を失い、キャラクタライズされたけものの姿から動物の姿になります。けものは元々、動物などに火山口から吹き出すサンドスターという未知の物質が接触して変身した姿です。ですからセルリアンはけもののサンドスターを食べている、とも考えられます。サンドスターが奪われて動物に戻ったけものたちは当然話すこともできなくなりますし、記憶もなくしてしまいます。

情報を食い尽くし、巨大化していく、走光性のモンスター。旧約聖書並びに多くの文学作品には、光が神の真理や知の表象として登場します。スティーブン・キング原作の映画『IT/イット』で人々を惹きつけて心を奪う魔性の光。プロメテウスが人類に与えた炎もゼウスの雷も、その光で暗きを照らしています。あるいは「くらきをひら(啓)く」と書いて啓蒙と読むように、崇めたてられる知識はしばしば光に例えられるのです。

ここで共感派と考察班とで分裂したファンの対立に思いを巡らせてみる。するとどうにも黒いセルリアンは、共感派が拒否していた「#けものフレンズ考察班」というそれ自体意思を持たない肥大化する巨大なデータベースの姿に見えてこないでしょうか。であるとするならば、考察班は考察によってしか気づけない領域においてはじめて、考察班自らがフレンズの敵として投影されているのだと気付かされる。皮肉なものです。

第12話「ゆうえんち」では、黒いセルリアンに飲み込まれたサーバルちゃんを救うために黒いセルリアンに飛び込んだかばんちゃんは、その後友情に駆り立てられたフレンズたちの協力によって救出されます。 かばんちゃんは真珠のように虹色に揺らぎ光る球体の姿に変わってしまいましたが、やがてその光る球体はぐにゃりと、ヒトのシルエットに姿を変えて、記憶もそのままに元の姿を取り戻します。その後、海に誘い込まれた黒いセルリアンは火山岩のように石化して、その自重に耐えきれずバラバラに崩れ落ちる。そして最終話のエンディングでは、海へと漕ぎ出すかばんちゃんとサーバルちゃんほか、正体の明かされないフレンズとの旅の続きをほのめかしたまま(画面右下にはかなり薄い文字で「つづく」とあります)、ブラックアウトで幕が閉じます。

続編製作の発表、旅の続きをほのめかして終わる結末など、『けものフレンズ』はその物語を終わらせたという印象を一切与えません。別の言い方をするならば、『けものフレンズ』の放送は終わっても、フレンズたちの物語はいつまでも続くように感ぜられるのです。しかしこれは同時に、物語が終わらないということはその考察にも終止符が打てない、ということでもあります。そのため、今も断片的な考察の数々は累積したまま、それらをすくい上げて『けものフレンズ』批評としてファンをうなずかせるような批評文がなかなか立ち上がりにくい。山積した情報群は象徴的な物語に化けることなく、まるで火山岩のように石化し崩壊した黒いセルリアンのように、インターネットの海に沈んでいくことでしょう。しかし情報の束が海に沈んでゆくその一方で、黒いセルリアンに飲み込まれたかばんちゃんが友愛に駆り立てられたフレンズによって救われたとき光り輝く球体を模していたことは『けものフレンズ』における真理が友愛の産物だったのだ、と考えられはしないでしょうか。いささか人道主義的に聞こえて萎えてしまった方もいらっしゃるでしょうが、もう少し続けさせてください。

ここで分裂したファンの話に戻ります。共感派と考察班、互いが互いをのけものとみなしあっていた彼らは、予告された考察班の死によって、決定的な考察の不可能性によって、そして「終わらないけものフレンズ」という幻によって、待ち続けるファンというひとつの姿に統合しました。もとより「たのしー!」「すごーい!」というワンフレーズで共有できる感情を追い求める共感派は、考察を完結させるために物語の終結を望んでいた考察班のように『けものフレンズ』が終わることを望んでいたわけではありません。彼らにとって『けものフレンズ』は長く続けば続くほどいい。「終わり」に至る続編を求める考察班と「終わり」に至らない続編を求める共感派の目論見を一致させて初めてフレンズとなれた共感派と考察班は、幻に囚われた自分たちを嘲り笑いながら、過去のデータベースの墓の上に【#けものフレンズ13話】という決して咲き得ない種を振りまいたのです。待つことによってはじめてフレンズになれる彼らにとって、永遠に訪れることのない開花の瞬間たる『けものフレンズ』13話は、2月1日放送の第4話「さばくちほー」を後にしたファンたちの共同作業として植えられた友愛の種といえるでしょう。

  • 参考資料

#けものフレンズ考察班. https://twitter.com/search?q=%23%E3%81%91%E3%82%82%E3%81%AE%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%BA%E8%80%83%E5%AF%9F%E7%8F%AD&src=tyah&lang=ja
ピクシブ百科事典「 せるりあん」. http://dic.pixiv.net/a/%E3%81%9B%E3%82%8B%E3%82%8A%E3%81%82%E3%82%93
animereal「けものフレンズ」はいつから流行したのか. http://animereal.hatenablog.jp/entry/2017/02/11/223810

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