『仮説的偶然文学論』読書会(織田作之助.ver)その1
信濃の読書紹介に引き続き、小田の読んで来た本の紹介と鼎談です。
それではどうぞ。
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私は織田作之助の『夫婦善哉』『可能性の文学』を読んで、それからこの会合に臨みました。
酒場でチンピラが「馬鹿野郎」と唾を飛ばしながら叫んでいるのと変わらないほどの快哉と緊迫が、常についてまわる織田の文体の速度に身を任す快感に、半ば酔いしれながら「不良」としての織田が手がけるテクストについて、簡単にお話しさせていただきました。
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小田:文章を読んだパッションを活かしつつ、語りたいことを話すって難しいですね。
信濃:それが最初に言った自分が体験したことだけを話すっていう。
小田:そうですね。織田作之助から触発されたエネルギーでただただ話す。これが僕の限界です。
織田作之助の作家性と選出理由
信濃:自分の発表に制約を持ってるんですね。
ちょっと質問なんですけど、従来の近代文学の、深く深く垂直に文学を探求していくある種保守的なやり方とは対照的なものを織田作之助は追求した。水平にってことなんですけど、水平に文学を探求していくっていうのはちょっとわからないんですが。
小田:順を追って二つ話しますね。
まず垂直方向的な思考のアイロニーのお話から。垂直方向の思考とはつまり、何が本当かということを問い続ける思考です。「それって本当なの、それってこうじゃないの」って行った先に「本当の」真実がある、と措定するんです。でも織田作之助は本当の真実なんかどうでも良いと開けっぴろげに言ってしまう。もうガンガンに嘘をついていけと。深く掘り下げて「本当」を見出そうとするその試み自体を放棄してしまうんですね。実際に音読してみようかな。
彼等は小説家というものが宗教家や教育家や政治家や山師にも劣らぬ大嘘つきであることを、ややもすれば忘れるのである。いくたびか一杯くわされて苦汁をなめながら、なおかつ小説家というものは実際の話しか書かぬ人間だと、思いがちなのである。髭ひげを生やした相当立派な(髭を生やしたからとて立派ということにはなるまいが)大学教授すら、小説家というものはいつもモデルがあって実際の話をありのままに書くものであり、小説を書くためには実地研究をやってみなければならぬと思い込んでいるらしく、小説家という商売は何でも実地に当ってみなくちゃならないし、旅行もしなければならないし、女の勉強もしなければならないし、並大抵の苦労じゃないですなと、変な慰め方をするのである。私は辟易へきえきして、本当の話なんか書くもんですか、みな嘘ですよと言うと、そりゃそうでしょうね、やはり脚色しないと小説にはならないでしょう、しかし、吉屋信子なんか男の経験があるんでしょうな、なかなかきわどい所まで書いていますからね――と、これが髭を生やした大学の文科の教授の言い草であるから、恐れ入らざるを得ない。何がそうでしょうなだ、何が吉屋信子だ。呆れていると、私に阿部定あべさだの公判記録の写しを貸してくれというのである。「世相」という小説でその公判記録のことを書いたのを知っていたのであろう。私は「世相」という小説はありゃみな嘘の話だ、公判記録なんか読んだこともない、阿部定を妾にしていた天ぷら屋の主人も、「十銭芸者」の原稿も、復員軍人の話も、酒場のマダムも、あの中に出て来る「私」もみんな虚構だと、くどくど説明したが、その大学教授は納得しないのである。私は業を煮やして、あの小説は嘘を書いただけでなく、どこまで小説の中で嘘がつけるかという、嘘の可能性を試してみた小説だ、嘘は小説の本能なのだ、人間には性慾食慾その他の本能があるが、小説自体にももし本能があるとすれば、それは「嘘の可能性」という本能だと、ちょっとむずかしい言葉を使った。すると、はじめて彼は納得したらしかったが、公判記録には未練を残していた。
(織田作之助「可能性の文学」青空文庫より)
という感じでですね。小説の本能、小説という試みの本質に「嘘」というものを置いたんです。何が本当か、何が本当かって懐疑的にありつづけた文学者たちはナンセンスだと。嘘ガンガンつこうって水平方向に向かうわけです。それはあまりにも強烈なアンチテーゼとして機能している。
かなめ:さっき内容に触れないとか言ってたことを承知で、しかも最初の紹介で聞いたような気もするのですが、読んだものとしては織田作之助の小説じゃなくて、織田作之助の小説論、文学論を読んだんですね?
小田:二つ読みました。織田作之助の有名な小説論『可能性の文学』。短めな評論です。それと『夫婦善哉』っていう中編の小説を読んできました。『夫婦善哉』も嘘特有の臭いのあるユーモアが溢れる、軽やかでエネルギッシュな文体で物語が進められるすごい面白い作品なんですけど、実際に織田作之助の文学観を語るならば織田作之助の評論から語る方がやりやすいだろうと考えたので今回は評論「可能性の文学」をメインにやりました。
かなめ:リアルとかドキュメンタリーっていうよりも空想万歳、想像万歳。
小田:面白ければなんでもいいと。
かなめ:という態度が「可能性の文学」に書かれていたと。
小田:そうです。
かなめ:なるほど。
小田:織田作之助についての記述が『仮説的偶然文学論』のどの文脈で書かれたかというと、36ページです。
「Probabilityの範囲を超脱して Possibliityの極限に肉薄すべき」という主張に至る文脈の中で織田作之助が引用されています。つまりProbabilityからPossibilityっていうのは、ありそうなことだけを追求するんじゃなくて、実際にありうるよねっていうより広いことを追い求めていくべき、そこに驚きがあるっていうことを言っていて。そこで織田作之助の嘘なんだけれども、既存の文学の掟破りとして織田作之助が提言した可能性というのが引き合いに出されています。
ただ、この中では目次とか今まで読んできた読後感からもわかるように、織田作之助はこの本(『仮説的偶然文学論』)ではメインパーソン、マイルストーンにはなっていなくて。
「夜航」の第3号で偶然文学論を取り扱っている記事もあって、今回それも読んできたんです。それが結構内容的には、『仮説的偶然文学論』と重なっている箇所も多くて。偶然文学論争を追ってどういうことが語られていたのかをあらましを語るっていう評論だったので、僕がこの本と『夜航』に掲載されていた二階堂滉さんの論考を読んだ後で何がしたいかなと考えた時に、本論のロジックを転換させるマイルストーンにはなっていないからこそ、新しい議題が取り出せないかなと思って、織田作之助いいんじゃないかなと思って取り出した次第です。
さて、ここからどうやって話を展開させていくか。。。
熱量から見る佐々木と織田
かなめ:『夜航』では織田作之助はどういう扱いだったんですか?
小田:僕が見た限り織田作之助、出てないんですよ。
かなめ:そうなんですか。
小田:さっきも言いましたが『仮説的偶然文学論』の中にも織田作之助あんまり出てなくて。織田って結構主語でかいじゃないですか。だから織田作之助入れようとすると話がでかくなってしまって話しづらいということもあるのかな。
信濃:チョットあいつは外しとこうか、みたいな。
小田:(笑)さっき音読したところでどれだけ伝わっているかわからないですけれど、織田作之助って面白いですよね。破天荒で。
かなめ:なるほど。
文学の主なメインストリームとしてリアリズムがあって、リアリズムっていうのは偶然を突き詰めることでリアリズムなんだっていう話があるんでしたよね。
小田:ええ。
かなめ:で、織田作之助はリアリズムではなくて、もっと嘘をつこうとかっていうことを言っている。リアリズムを否定しているんですか?
小田:リアリズムを否定している。加えて日本近代文学全般をも批判している。
信濃:過激派ですよね。
小田:過激派です。超ワルですよね。
信濃:荒木さんはどちらかというと同じリアリズムを追求しても偶然が少ない方がリアルなんだっていう人たちと偶然が多い方がリアルなんだっていう、偶然否定派と偶然肯定派に分けてると思うんです、最初に。二葉亭と中河っていう。たぶん偶然肯定派のなかの一人として一応、織田作之助を出していると思うんですけど、でも実際小田さんが読んでみたらそれどころじゃなかったっていう感じですね。
小田:全部否定してるからね笑
信濃:で、一応横光利一の影響を受けてるんじゃないかっていう文脈でこんなかでは出てきてるんですけど。でも本人の言い分をよくよく聞くと、もっと・・・(小田:やんちゃですよね)やんちゃな感じがしますね。
かなめ:土台を否定している。上部はおんなじで繋がっているけれど、土台が否定されちゃっている。
信濃:でも言っていることは今の僕らが聞くと当たり前というか、もっともな感じがします。
かなめ:そういう態度で作品が作っている作家もいそう。
信濃:結構「あの女流作家は男を知っているんだね」って、今も言う人いると思うんですよ。
僕、この間読んだのは文月悠光っていう女性詩人のエッセイで、女性をテーマで詩を書いている時に「最近恋愛している?」って男性から言われたらしいんですよ。
「ちゃんと色々経験しておかないと詩書けないよね」って言われて、めちゃめちゃ怒ってたんですよ。多分同じことが繰り返されていると思うんですよ。
かなめ:織田作之助っていつの人でしたっけ。
小田:えーっと、14年に生まれて44年に死んでます。
信濃:そういう文学に対するベタすぎる視線、「これは本人の経験なんでしょ」みたいな、そういうのが許せない人たちの一人が織田作之助なのかなと。
小田:そこの、織田作之助の「みんなまだやってないけど、俺はガンガンやってくし」的な、「文学の可能性や人間の可能性ってものは嘘の中にこそ含まれている」っていう考え方の情熱って佐々木さんの『未知との遭遇』の熱量と近いものを感じたんですよね。
信濃:そうきましたか・・・。
小田:佐々木さんは未知の話をしてるじゃないですか。未知の話をしているがゆえに未知のものについて語り得ないというアポリアは存在する。どうしても。
未知のものについて話しているんだから、どうだこうだ、その内容の正誤について話しうるってことは無いんだけれども、でも未知のものに対して積極的に遭遇していくっていう数をこなしていく姿勢は、嘘をめちゃめちゃつきまくる大量生産方式の熱量とすごい似ているなと。嘘と未来は、その空虚さにおいては共通している。
虚構から見る織田と佐々木
信濃:ちょっと補足したいんですけど、現代の病理の一つとして現実から逃亡したいっていう、昔からあったんですけど最近特にそうだねってことがあって。その結果、人々がやっていることとしては、現実に向き合わない為により現実が必要とされているっていう奇妙なねじれが起きてるんじゃないかって書いてあるんです。
それはつまり現実から逃げる時にどこにいくかってことで。もちろん虚構であって、それが一見普通のことと思われて来た。一方で佐々木先生の本には本谷有希子とかの演劇やジジェクが出てくるんですけど、今や単純に虚構に逃げることは許されなくて、現実から逃げようと思ったら虚構の虚構性、つまり「虚構っていうのはある種の現実の中に成り立っているんだ」っていうことを見つめざるを得ない。
つまり「虚構のその先にやっぱり現実を見透かざるを得ないんだ」みたいな意味で、現実から逃げる為にやっぱり現実と向き合わざるを得ない。現実から現実へ逃げるみたいな、そういう回路になっちゃっているんじゃないかと、ちょっと妙な感じなんですけど。
それは虚構が虚構だってことをある種、メタというか認識しているってことなんですかね。ネタというかメタというか。織田作之助も多分虚構だってことをすごく認識、意識してたと思うんですよ。逆に言えば織田作之助が批判しているのは、すごく虚構っていうのをベタに扱っちゃう人ですかね。いや脚色は必要ですよね、みたいな、その程度にしか虚構を扱えない、ベタにしか扱えない人たちをすごい批判していると思って。そういう意味では、虚構をきちんと俯瞰して、これは虚構なんだってすごい意識しながら扱うっていう佐々木さんが取り出してきた現代人の姿っていうのと、織田作之助が追求したメタな視点っていうのは何となく近いところがあるなと。
小田:難しいな・・・。現実に根ざさなくちゃいけない、虚構の存在を措定した・・・。うーん、それは結構悲観的な感じなっちゃうんですかね。
信濃:ちょっと悲壮な感じはしますよね。「オタクは現実と虚構の区別はつかない」っていう批判があるけど、そうじゃないんだ、「オタクは虚構は虚構だってわかってんだ、わかった上であえて虚構に行ってるんだ」ってことを宮台真司とか大澤真幸がオタク論として言っているらしくて。それと近いなって思ったんすよね。あえてって。
小田:俺の嫁とか、そういうの実際そうですよね。オタクが自虐的なギャグとして使って。これは俺の嫁だからって二次元絵を使って提示する。
現実を把握できていない自分という像をメタ的に表象してギャグとして魅せるわけです。これは虚構なんだってことを強烈に認識しているからこそできる振る舞いであるし、まさに信濃さんがおっしゃったようにそうですね。オタクはメタ視点に立っているから、虚構を虚構と認識しているからこそできる振る舞いだなって感じです。
信濃:すごくそれって理解されづらい。ベタに受け取られてしまって。あいつ現実と二次元の区別がつかないのかって言われてしまう。
小田:扱われ方ですよね。受け取り方というか、あれ、佐々木先生の本の中で出てきた作家の名前、すごい怒っていた詩人のかた。
信濃:ああ、それは僕がツイッターで見たんですけど。
小田:すごい怒っていた詩人の方のお話もそうだし、織田作之助の話もそうだし、虚構の扱われ方に対してブチ切れて、虚構をちゃんと見つめろって話しているわけですよね。。。でも見つめているわけじゃあないんだよな。嘘をつきまくってるだけだから・・・。
信濃:多分織田作之助は読者に自分と同じように虚構を虚構として面白がるっていう姿勢を要求してますよね。ネタをネタとしてちゃんとわかってくれって。
小田:それはありますね。その部分、僕自分もすごい迷っている。自分にとっての救いを実存的に、織田作之助の文学作品のなかに見出そうとして読むと全然面白くない(笑)嘘じゃんこれってなっちゃうんで。
一同:(笑)
小田:俺の人生はリアルなんだってなっちゃう。
生きてると可能性がいっぱいあるように感じるんだけれども、行動自体がいつもと同じっていう習慣の中に閉じ込められている感じがあるじゃないですか。感覚として。で、その閉じ込められている感じ。可能性がいっぱいあるのに自分たちの生活はいつも同じ、灰色っていうのを一種ぶち壊す爆薬として、この(織田の)テクストというのは機能していると思います。
信濃:現代ってすごくいろんなものがベタになっているっていうのはすごく思います。
小田:素朴に考えて、きっとお笑いもそうですよね。いつの時代も同じかもですが。
かなめ:なんですか、これは笑えなくなっているってことなんですか?ユーモアが無くなっているってことなんですか?
信濃:僕はユーモアが無いなってツイッターとか見ても思います。
小田:わかる。みんな「普通」って言いすぎなんですよ。常識的に考えて、とか。ポリコレとかの話も「普通に権利は守られるべき」とか。すぐ「普通」とか「べき」とか結論に落とし込もうとするんですよね。違う違う違う、違う違う違う。
信濃;みんな思っている普通っていうのが違うってことをすごく忘れられやすい。
小田:言語化されない「普通」を振りかざしてポリコレの人たちが勢力を維持するっていうのは後々痛い目を見るからやめた方がいいんですよ。絶対逆手取られるし。そんなこと言ったって仕方ないんですけど。
どう振る舞うのかって難しいかもしれないですけど、美学的な思考って必要だと思うんですよ、やっぱり。普通とかみんながやっているからこうだよねっていう話じゃなくて、一主体としてどう自分が振る舞いたいかっていう、個人としての倫理的振る舞いというか、美学的振る舞いみたいなものを一人一人が洗練していくというか、絶対必要じゃないですか。その前提をもう一回ちゃんと共有したい。人類と共有したい。そういう気持ちがありますね。普通とかいうんじゃなくてさ、って。
あれですか、これ真面目だと思いますか。
信濃:そうですね。まるで会話が成り立たない人たちを見ていると、すごく虚しい気持ちになりますね。そういうのを見ていると。つい見ちゃうんですけど。
小田:つい、見ちゃう(笑)
信濃:見ちゃってはため息をつくっていう。
続く・・・。

