名前、神、子ども、(怪物)

異論はあるだろうが、怪物は小食である。

世界の周縁から訪れる怪物。それを目にする機会はほとんどないと言っていい。普段意識しなければ本当にいたのかどうか、その存在を忘れてしまうほどだ。しかしひとたび出会ってしまったなら、私たちの日常を揺るがす取り返しのつかない変化がこの世界に生じる。怪物は私たちが意識せずに当然と信じていた事柄の信用をいとも簡単に揺るがして、「一秒先に何が起こるか知らないぞ」と私たちを脅かす。

『進撃の巨人』を思い出しながらここからは読んでみて欲しい。怪物が現れたのち秩序を保てない王国では、主権者たる王は完膚なきまでにその信頼や説得力を失い、その権限を築き直す試みを強いられる。外界に適応して生きていくためにはまず、内部と外界で直接的な軋轢を避けるための「壁」が必要だ。壁の中の安寧な王国で生きていると、私たちは次第に認識可能な世界の外側にまだ見ぬ領域があるということを次第に忘れていく。そうして忘れ去られていく外界の存在、危うさを思い出させる存在、それが怪物である。健康体にとってのウイルス、と言い換えてもいいかもしれない。健康であるときには病気のことは考えない。

普段は世界の外部に”ある”が故に、怪物は生態系に参与できない。「食うー食われる」という食物連鎖の関係に身を置くことができないのだ。つまり、関係性の構造に入っていない。漫画や映画において、怪物は悪食暴食として描かれているかもしれないが、強靭な歯で噛み砕いた肉片は消化されることなく、噛み砕かれたままの姿で肛門から産み落とされるに違いない。さもなくば、摂取物が雲散霧消するか、いずれかである。

怪物は食事という振る舞いあるいは模倣を通じて、有機体(生き物、組織、なんでもいい)の形状を組み替えているにすぎない。世界の内側で生きる有機体の構造をバラバラに組み替えてしまう。怪物の身体が食べたフリをした後には、生命だけが姿を消す。

Mary Shelleyの”Frankenstein”に登場する怪物(daemon)も文字通りの小食だった。強靭な肉体と俊敏な身のこなし、温厚な人格、理知的な頭脳。その醜さゆえ姿を見た人間は逆上し、時に気を失ってしまう、あの孤独で哀れな怪物は、生涯ほとんどものも食わずにフランケンシュタイン博士の父、恋人、友人をひとりひとり、屈強な腕力で絞殺しつづけた。
ひとたび現れてもすぐに博士の前から姿を消し、諦めようとした時また現れる怪物は、まさに世界の周縁からの訪問者である。

世界の周縁には怪物がいるということはわかった。では世界の中心には何が”ある”のか。神である、と言いたいところだが、ここが問題だ。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、一神教のいわゆる「神」は、近代以降、あるいはエラズマス・ダーウィンによって「進化」という概念が生物学に持ち込まれて以降、その権威の形を大きく変えてしまった。生物学と神学が繋がっていた中世以前と同じ信仰を、今でも人々が持っているとは考えられない。もっと簡単に言えば、神がこの世界を創ったとはあまり信じられていないのだ。

では近代以降、かつての権威を失った神に成り代わって、今そのポジションに立つ存在は何か。「子ども」である。
 少し遠回りしよう。まず、人間には信仰が必要である。信仰、あるいは信仰の一形態である愛こそが、物事に価値を見出すものであり、人間は自分自身の価値を見出すため、避けようがなく信仰や愛を求めている。しかし皆が皆、信仰や愛の形を共有できるかというとそれはもちろん違う。教団が、国が、あるいは人類が、同じ信仰を抱く一共同体として維持できなくなれば、共同体は分化する。もちろん時には共同体同士が結託することもあるだろう。しかし、共同体は基本的に分化の歴史を辿ってきたということは、教派同士の対立が絶えない西洋宗教史を思い返せば自ずとうなずけるはずだ。

そうして信仰が分化していく中でも、未だ「家族」は多くの人々にとって愛の住む場所として、信仰の対象であり続けているように思われる。家族は普通、血縁的な先天的な集団であると認識されていること、そして家族が最小共同体であることからもそれは推測される。価値が認められているということは、信仰の対象であることの言い換えに他ならない。(そもそも価値というものは懐疑の対象になっていない対象に向けられる)だからこそ、生まれつき慣れ親しんでいる物事は信仰の対象になりやすい。そうして共同体は分化して世界から家族に、信仰の対象は世界の中心(神)から家族の中心(子ども)に成り代わった。

そして最小共同体であるはずの家族はここからさらに、その形を変えていくことになる。

サヴェリオ・コスタンツォ監督の映画作品『ハングリー・ハーツ』における愛の喪失は「子ども」によってもたらされている。

中華料理屋、男女共用トイレの1.5m×1.5mの空間を遮るドアと、食卓の並べられた飲食の空間から隔てるドアのあいだ。二つのドアの鍵が壊れて、洗面台の空間に閉じ込められたジュード(アダム・ドライバー)とミナ(アルバ・ロルヴァケル)は、トイレからの脱出劇という共同作業を通じて距離を縮め、やがて交際、結婚に至る。笑いと抱擁、キスに満ちた二人の関係は円満であるかのように思われた。

妊娠、つまり「夫婦」から「家族」への変容に伴って、二人の間にあった不安と情熱の入り混じった燃えるような男女の愛はゆっくりと錆びていく。妊娠を知った夫婦がお互いの不安を慰め合うように抱きしめ合うシーンや、序盤のベッドシーンが燃え上がる愛の痛切な印象を与える一方、子供が生まれて家族になってから夫婦が抱き合うシーンは一度もない。それどころか二人の間には愛の囁きすらなくなってしまう。

妊娠の不安感に駆り立てられて訪れた占い師との出会いがきっかけでオカルティズムに傾倒し、子供に自家栽培の野菜とオイルのみを与え続ける妻、そして子供の健康状態を気にかけて妻の信仰に背き、隠れて肉を与える、医者に見せてしまう夫の間で生まれた亀裂は次第に深まりつづける。子どもを中心にすれ違い続ける二人の間には、乗り越えることができない信仰の壁がある。

ところで、この子どもには名前がない。名付けられていないのか呼ばれていないだけなのか、それはわからないがとにかく、両親にひどく愛されているのに、子どもは一度も名前で呼ばれることがない。もし神の代理として現れたこの子どもがその名前を呼ばれていないだけだと考えるなら、旧約聖書の一片が語っているように彼らは子どもを恐れているのかもしれない。

君の神、ヤハウェのみ名をみだりに唱えてはならない。
何故なら、ヤハウェはそのみ名をみだりに唱える者を罪なしとしないからである。
(旧約聖書 出エジプト記20・7)

そして“Frankenstein”に登場する怪物、彼にも名前がない。有名な話ではあるがフランケンシュタインとは怪物の名前ではなく、死者の亡骸から怪物を創り出したスイス人博士の名前である。だが世界の周縁に生きざるを得なかった怪物と異なり、『ハングリー・ハーツ』における子どもは常に家族という世界の中心にある。劇中で両親から食事を与えられる描写が頻出していることから考えても、子どもは神の代理として措定されたまま、神的な存在としてあり続けている。

しかし子どもは肉を食ってしまう。肉を纏うとは汚れるということである。妻であるミナの方針で草食に徹底していた子どもの食事に、夫ジュードの手によって肉が混じる。肉を食い汚れを得て、神から人間へと変化の道筋を辿らざる得なくなった子どもを見て、夫への怒りが湧き上がる。一方で痩せこける我が子の健康状態を鑑みない妻に対して、夫はやりきれない気持ちを抱える。神として育てようとする母、人として育てようとしている父との間で、深刻な分裂が生じているのだ。

人は神として育てうるかという疑問はもっともであるし、事実『ハングリー・ハーツ』をめぐる観客の論評には、ミナを「常軌を逸した妻」として不快感を示すものが少なくない。しかしこれは二人の人間をめぐる信仰の問題であり、第三者がどちらかに加勢してイデオロギー的対立を解決できるといった類の問題ではない。だが実際は、こういった乗り越え難い信仰の壁、イデオロギー的解決が終わる時があるとすれば、それは正義感をぬぐいきれない第三者の実力行使的な参入によることがしばしばである。『ハングリー・ハーツ』でも同様に、ジュードの母アンの抑えきれないミナへの嫌悪感、孫を守りたいという焦燥感、解決する手段はこれしかないと信じる正義観が彼女を実力行使に駆り立てる。

粗い画質と大きな手ぶれをそのままに記録する20年前の家庭用ハンディカメラで撮影されたかのような数分間の映像は、海辺の一面を染める今にもその輪郭からこぼれ出しそうな丸々とした橙色の夕日と、海の上に弾ける光を嬉しそうに見つめる母と胸に抱えられる子どもの姿を映している。夕日に照らされて母の頬に痛々しく残る赤い痣は、手放せないものを巡る戦いを潜り抜けてようやく掴み取った愛にいま彼女の全てを子どもと過ごす時間に捧げられる安堵と喜びの表情と相まって、ミナが母であることを観客に強烈に感じさせる。神に対する畏怖の表情は今やどこにも感じられない。
人生のほんの一片を切り取ったこの美しい映像、過ぎ去ったいま決して触れることができない尊い記憶は、一人の人生を意味付ける特権的な思い出として昇華されていく。ブラックアウトと共に大きな銃声が訪れた後に。

夫婦が子どもという神への信仰を巡って戦い、別々の親子になる。映画のラスト、成長した子どもと父のジュードが海辺で手を繋ぎながら戯れる姿が映し出される。かつて母のミナが子どもを胸に抱えながら訪れたあの海を背景に笑い合う父子の姿を見るとき、バックグラウンドミュージックとして鳴り響くVicente Fernándezの伸びやかな歌声も相まってどこか滑稽で明るい雰囲気を漂わせたままエンドロールを迎えていく。しかし幕が閉じてからふと、この映画の数々のシーンを思い返すとき、妻と父、母と父と子、母と子、父と子、四つの家族の姿が時折脳裏に浮かぶ。そして、子どもという神の登場が夫婦間にもたらした信仰の差異、関係の断絶に伴う家族の変容にも常に子供が中心にあったことを改めて思い返すと、形がどう変わってもそこに愛があり続けていることに、私は安心感を覚える。神という、名前を呼ばれない匿名的な存在であったからこそ、たとえその時点に存在していなかったとしてもその空席によってどんな形の家族も引きつけてしまう磁力が、ジュードとミナの間に産まれた子どもにはある。

そして実際、様々な家族像を抱え込んでしまう抽象名詞としての「子ども」の磁力が、未だ私たちの生きる文化には働いているように思われる。

・参考資料

『旧約聖書 出エジプト記』関根 正雄訳、岩波文庫(1969)
シェリー『フランケンシュタイン』小林章夫訳、光文社古典新訳文庫(2010)
周東美材『童謡の近代――メディアの変容と子ども文化』岩波現代全書(2015)
丹生谷貴志『天皇と倒錯―現代文学と共同体』青土社(1999)
Shelley, Mary. “Frankenstein”. Penguin Classics (2003)

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