かなめ
かなめ
Jun 13, 2018 · 15 min read

先日キュビット編集部にて、荒木優太さんの新著『仮説的偶然文学論 <触れ-合うこと>の主題系』の読書会を行いました。この記事はその1からの続きです。
今回は遅刻してきた小田が差し出すレジュメの話から次第に課題本の概念である<触れ-合い>へ迫っていきます。課題本に書かれている<触れ-合い>のイメージがその言葉にきちんと沿っているのか。そしてこのあとの議論に引き続く重要ワードも今回出てきています。ご注目を!

かなめ:この話とどうつながるかわかならないけど、独歩の文脈で実存が出てきたのは、実存がないと偶然ができないって話だったと思うのですが。
自然は自然のままで、物理法則は自然性に支配されていて、動物や物体はその支配下にあり、人間はその法則性に衝突し、偶然がわかる、感じられる・・・。実存ばかりを考えすぎない・・・。

信濃:実存の話でいくと、国木田独歩は実存主義文学として読まれうる。そしてその実存主義というのはハイデガーが元になっている。ハイデガーは純粋なる第三者の視点を禁じている。第三者というのは神や日本の精神とかそういうもので、神的な方向、形而上的な方向に飛ばないのが独歩だというように書いてありますね。
かなめさんの疑問に答えられているでしょうか?

かなめ:・・・多分読めてないのでスルーしてください(笑)

■小田のレジュメ

信濃:あ、小田さん何か用意してきましたか?

小田:用意してきました!

信濃:あざっす!

小田:でも全然書けてない(笑)10分ぐらいで打ったからね。。。

信濃:是非お願いします。。。

小田:読み合わせますか。

小田:全然書いてないのはメモ用紙として利用できるかなと思ったからです。

かなめ:題名の仮説的の説明も書いてある。

小田:レジュメ作った経緯なんですけど。今日13時ぐらいに本読み終わってそれからレジュメつくるぞと(笑)

一同:(笑)

小田: この本をどんな路線で話すのか、何も路線を決めないで読書会を始めると、置いてきぼりになる人が結構出るだろうなと予想されたんですね。「今なんの話してるの?」てな具合に。
それはどういうことかというと、この本で最初に取り扱うと宣言されている偶然文学論争。1930年代の文学者たちが繰り広げた、文学においてどれだけ偶然が必要なのか、あるいは必要ではないのか、という議題をめぐる論争。その歴史観を読書会のテーマを持ってくるのか。
あるいは偶然をどれだけ受け入れて生きていくかという、あくまでも僕たち読者の実存的な問題としてこの本を語っていくのか。
あるいはリジッドに、文学あるいは芸術という枠内において「偶然」を考えるのか。他にもあると思うけれども、どの路線で語るのかっていうのを定めないでみんなで自由勝手に話してしまうと、混乱したまま今何の話をしているのかわからなくなってしまうと思いました。それならとりあえず前提は話し合うべきだろうなと思い、このレジュメには前提の項目を入れておきました。

次の項目に関してですが、レジュメをつくるにあたってこの本の最後の箇所、「仮説的」の説明が印象に残っていたんです。

本書の題名に冠された形容動詞「仮説的」は、その不完全性や試論的性格もさることながら、形而上的(離接的)な観点に至る一歩手前に留まることで、経験的な<触れ-合うこと>の複雑さを捨象しないテクスト読解の姿勢を含意している。

この文章は、複雑でカオスなテクストを抽象化することで、その実性、リアリティをなかったことにすること、無視してしまうことを拒否していると読めます。それならばこの本のレジュメ作るにあたってもまとめるのはなしだな、と。

一同:(笑)

信濃:まとめるもんじゃないと。

小田:まとめるもんじゃない。俺がやることじゃないという話になり、こういうレジュメになったと。
とにかくテクストに各々帰りつつ抽象論をつくりあげ、再度テクストに戻りながら「いや、やっぱりこのように考えられるだろう」と、思考を捻じ曲げるみたいな。そういう話し合いができたら、この図書の性質にあった感じになるのかなと思いました。

信濃:レジュメがこうなった必然性の説明ですね(笑)
たしかに(レジュメの「前提」の箇所を指さしながら)この本をめぐる議論には複数のレイヤーがあるってことですね。全然こういうふうに考えてなかったですね。言われてみれば確かに。

小田:なんか、こういう前提について考えることが最近多いんですよ。働き始めたら周りとあまりに話が合わなすぎて。何がちげーんだろうって考えること多くありませんか?

かなめ:言葉が合わないっていうのはある。

信濃:そもそも文脈が共有できてないぞ、みたいな。

小田:そうだとおもいます。前提が違いすぎて、前提のすり合わせから始めないと、それで時間終わりみたいな感じになっちゃう。もう予め僕が持っている文脈というか、どういう場所に自分が立っているのか、どうやって生きてきたか、ということを考えることが最近すごい増えた。それで前提を入れてまとめてみました。
ちょっと本の話、しましょうか。俺の話をしちゃった。

■問題設定と序盤の流れ

信濃:最初の方は忘れちゃったんですが・・・第一章は偶然文学論争についての話ですよね。九鬼周造とか織田作之助とか横光利一とか、色んな人が偶然について「いる」だの「いらない」だのっていう話をしていた。それは覚えています。

かなめ:序文が気になっていて。24ページ。序文って本の全体が語られるから・・・。近代小説には脈絡っていう王道な観点があって、そこから抜け出るものがなんなのかっていうのをこの本では取り扱いたい?むしろ抑圧されているんじゃないかっていうことを取り扱いたい?

小田:抑圧されているっていうのは何をですか?

かなめ:えーっと・・・。脈絡を語らなければならないっていう作者の考え?

小田:脈絡・・・。

信濃:まずこの本の問題設定っていうのがなんだったのかっていう話ですか?

かなめ:はい。

信濃:最初に二葉亭四迷と中河与一っていう二人の対立するキープレーヤーがいて、で二葉亭四迷が形(フォーム)と意(アイデア)っていう話をしたと思うんですけど。

小田:二元論ですよね。内容と形式。

信濃:そうそう。脈絡っていうのは「内容」の言い換えだと思うんですけど、二葉亭四迷が支持したのが内容および脈絡のほうで、中河のほうが形式および偶然を支持した。で、両方小説はリアルであると言っていた。リアルであるべきだと思っていたのは同じなんだけど、どういう意味でリアルなんですか?っていうと、二葉亭さんは作者のアイデアに則って脈絡が整っていることだよと。一方中河さんはそもそもリアルっていうのは偶然ばっかりなんだから、偶然がいっぱい起こるのが小説におけるリアルだよって正反対のことを言っていた・・・というのがその二人の対立じゃないかなと思います。
この本は中河に寄り添って、「事実は小説より奇なり」が正しいんだとすれば、小説もまた偶然ばっかりであるべきじゃないのかというように、文学における偶然の必然性を確かめていこう、みたいな感じですかね。

小田: こっからの論としては、物語上への積極的な偶然の導入を許してしまうことは、作者の都合のいいように物語を作り変えているという読者の印象につながる。そこで読者は冷めてしまう、みたいな。

信濃:さすがにツッコミ入るっていう。

小田:読者としては「萎えるんだが」みたいな話になっていって。じゃあ塩梅的にどうなのっていうか、その恣意的な偶然のインストールは何がもたらしているのって言う話になって、その背景には国粋主義がうんぬんかんぬん・・・。

信濃:そうですね。

小田:今考えたんですが、(キュビットの)ツイッター(アカウント)あるじゃないですか。メモしたレジュメをアップしようかなってことを考えてました。

信濃:ちなみに、なんで「空白」って書いてあるんですか?

小田:空白って書いたのは後でなんか書こうと思ってそのまま印刷してしまったという・・・。

信濃;これも偶然の産物ですね・・・。

■共同体と神経症

信濃:荒木さんは最初に中河与一に肩入れしているように見えるんだけど、段々読むに連れて「おや、こいつ(中河)結構偏ってね」みたいな。

かなめ:批判的にも見るけれど、でも読み続けるみたいな。

信濃:そうですね。

かなめ:ナショナリズムも書いてる。

信濃:ありましたね。「近代的国家から伝統的日本へ」という節が53ページからある。最初じっくり中河の『愛恋無限』、すげえタイトルの小説ですけどこれをじっくり読んでいって。競馬場についての話とか結構良さげに見える。

かなめ:競馬場での話ってそんなに無いですよね。

信濃:馬の勝負と人間の勝負が二重の偶然となって。いいじゃんいいじゃんとなったけど、かと思うと舞台が瀬戸内海に飛んで、柿本人麻呂やべえわみたいな、その転向というのが・・・。

かなめ:突然すぎる。

信濃:そうですね。偶然性をインストールしていった結果、妙なものがアウトプットされてきたというか。これまでの展開はこういう日本的伝統にたどり着くためのものだった、と最初の競馬場のシーンも回収されてしまう。それが中河与一のある種の限界だった・・・。

小田:それは中河与一が存在している共同体の枠ってことですよ。

信濃:枠・・・。

小田:偶然をめぐる想像力ってあるじゃないですか。「何を偶然とするのか」っていう問いに対して文学者たちがそれぞれ引き合いに出したものが偶然として物語を成り立たせる。いってしまえば、他者を導入しようとしているんです。導入しようとするんだけれども、その必死で考えた他者っていうのは共同体の内部に生きる人間の立場から見た他者であって、この共同体を逆説的に形作るものでしかないから、これはすでに純粋な他者ではない。

信濃:『号外』の話ですか?

小田:まさに。
共同体の淵に向かって身を寄せようとする行為は人を追い詰めると思うんですよ。他者や偶然を一生懸命導入しようとすると神経症になるじゃないですか。

信濃:<感性>が過敏になりすぎる。

小田:<感性>をめちゃめちゃ研ぎ澄ますと、人間は疲れてしまって、何も感じたくなくなってしまうということがある。そこのあたりって要するに、「偶然の美学」っていうものを夢見る若者が感性を研ぎ澄まして過敏に過敏になって、結果的に神経症になって、でどうするってなるとヒッピーになる・・・。
自分と他の人のあいだにある個の区別を脱臼させるような話として、すごいボロい家に住むって話があったじゃないですか。集団として生きる人たちの話。

信濃:葉山のはなしね。

小田: そうです。あの話までを考えるなら、この本の論はまだそこで締めくくられてはいませんけど、あそこまででこの話を締めくくるなら、近代的自我を棄て去ったヒッピーになりましょうって話なんです。
なんだけれども。この本はヒッピーになりましょうっていう論に行くんじゃなくて、個もあり集団もあり、持ちつ持たれつという話に落ち着く。

信濃:最後の最後ってことですか。葉山の話が終わったあと。

小田:そうです。

信濃:あー、個もありって話になってるんですね・・・。

小田:というのはですね。あとがきの手前の最終文あるじゃないですか。ここ(レジュメ)にも写してあるんですけど、最終文には「形而上的(…)な観点に至る一歩手前」(p.302)とあります。ってことは、形而上と形而下があるってことじゃないですか。
ということは「みんなそうだよね」という一般論じゃない。個々の存在物にいろんな問題、性質があるっていうことに加え、作品作品、物それぞれの固有性が担保されているんです。この本の論としては。

さっきの話に戻すと、ヒッピーのようにみんな一緒で、グルービーな感じっていうよりは、集団へのフュージョンもあれば個もあって、その中間を私たちはさまよい続けてるんだ、っていうのがこの本の論だと思ったんです。

信濃:言われてみれば個の話でしたね。

(若干の沈黙)

小田:読書会で提示するに何が適切な問題なのか、思いつかないもので。

信濃:難しいですよね。ちゃんとした議論になるだけの問いを出すのも難しい。

■<触れ-合い>について

触れ合いの語源から小田のイメージへ

小田:書き方の話になっちゃうんですけど、僕の記憶だといきなり<触れ-合い>って言葉が出てくる。<触れ-合い>。なにそれって。なんでハイフン入れたんだろうって。

かなめ:コンテイジョンなんだよね。英語(編注:実際にはラテン語)でconとtangereで触れ-合い。

小田:語源とか出しますよね。

信濃:出しますね。僕がぱっと見たときは「触れる」っていうのと「合い」っていうのを分けて、それぞれの意味を別で考えたかったんじゃないかと。

小田:なるほど、偶然の本質は遭遇だってやつですね。

信濃:そうですね。単純に触れるっていうと、どっちがどっちに触れたかよくわからないじゃないですか。<触れ-合い>っていう分には自分と他者との両方とがそれぞれの条件を絡み合わせた結果、生まれるのが偶然だという話だと思うんで、多分「合い」の部分を強調したかったのかと。

小田: それについては最初のほうではじめて目にしたときから、全然しっくり来なかったんですよ。
<触れ-合い>っていうと、自分と相手で衝突するイメージが湧くじゃないですか。衝突したときに双方変わるっていうイメージ。でもこの本の中で現れる「偶然」って、自分がいて、それ以外のもの、それ以外の何かが襲いかかってくるっていうイメージで書かれていて、そしたら襲ってくる出来事って変わらないじゃないですか。なんか対等じゃないなって思って。自分と偶然として訪れる他者が。なんかそれはね、<触れ-合い>って言葉とマッチングしてないんじゃないか。

かなめ:しかもこっち(襲いかかられる方の自分)はすごいことになっちゃうし、ね。病気になっちゃうし。

小田:そうそう。おまえ(襲いかかる他者)だけ得してんのか、みたいな思いがみえる。ほんとそれは実存的であるがゆえの領域の狭さっていうか、ある種の貧しさを抱えてしまっているよな、って。

イメージに重ねる『武蔵野』と<触れ-合い>の説明

信濃:例えばこの中で割とパーフェクトな偶然文学の例として国木田独歩の『武蔵野』が挙げられていると思うんですけど。148ページ。例えば『武蔵野』ではどうですか? <触れ-合い>っていう言葉は小田さんのイメージとは離れてますか?

小田:そうですね。なんか本当に<触れ-合い>として小説を描くんだったら、ポリフォニーでしかありえないと思うんですよ一人の人が主人公で話進んでいったら、こいつが主人公、小説の中の中心になってしまうので、そしたらそれとそれ以外の人物は対応しなくなるというか。モノフォニーで書いたら、比率としてこいつ(主人公)の方が重くなるのは当然だろうって。
でも、『カラマーゾフの兄弟』みたいに色んな人が交互に話すっていうポリフォニーの形態をとってしまったら、他者と自分のパワーバランスっていうのが揺れて、僕が感じた<触れ-合い>って言葉の「合い」のバランス感覚みたいなものが、なんとなく解決するとは言えないにしろ、改善には向かうだろうなって。

信濃:2つの可変的なスライムみたいなものがベチャってくっついて、ここ(くっついたところ)の面がガーっと変わるみたいなのが、小田さんの言う<触れ-合い>だろうと。

小田:そうです。

信濃:この作者が例に出しているのはことごとく変わらない土台みたいな自分がいて、ここに彗星のように偶然の物体がキューン、ベチャッと来るんだけど、お前(土台である自分)変わらんなみたいな。

小田:っていうよりは、隕石が変わってないんですよ。こっち(土台である自分)は折れましたみたいな、自分可愛そうみたいな感じになる。

信濃:こっち(土台である自分)は形が変わるんだけど・・・。

小田:そうです。隕石無事、みたいな。

信濃:他者のほうが変わらないってことなんですね。

小田:他者無事だと思うんです。あれ、無事なのか、無事じゃないのか・・?

信濃:確かに『武蔵野』で言えば自分と武蔵野という土地とが偶然に出会う・・・かな?
多分武蔵野が自分によって変えられるってことはないですよね。

小田:そこが神経の過敏さっていうか、自分にしか向かなくて、環境を絶対視しちゃっているんですよ。序盤のほうの話でいうと。

信濃:<触れ-合い>って触れられているにすぎないのではないか、ってことですか?

小田:そうです、そうです。

信濃:<触れ-合い>って出てきたのどこらへんでしたっけ。

小田:結構説明なかった気がしたんですよね。いきなり<触れ-合い>って出てきたイメージが。

信濃:そうか、索引をみればいいんですね・・・。最初は60ページ。

ここに出されている例だと、九鬼周造は偶然性は一者=自分と他者との出会いが偶然性だと言っているんですが・・・。

ならば、必然化された「一者」(自己同一性)の設定如何によって、その「二元性」を形成する他者との接触面の内実は変幻自在に変化するはずだ。「馬」の臆病が偶然の感受を敏感にさせたように。問うべきは、他者に等しい偶然以上に、その受容を司る同一性の型の方である。

小田:根源から一者の話って感じですね。

つづく・・・

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