かなめ
かなめ
Jun 20, 2018 · 18 min read

本読書会の模様をお伝えするのもこれで三回目となります。第二回に引き続き<触れ-合い>について気になる四人は信濃のイメージを共有することでその言葉に迫ろうと奮闘します。特に小田の興奮気味な主張は必見です。

また個人的には、他者を鏡とするのか自分自身の反省によってアイデンティティを獲得するのかの話、ぶつかってそのままの他者/割れる自己と結局自己である一者の話、など、比べよ参照せよ、な話が多かったのがその3だと感じています。
それではどうぞ!(かなめ)

■「一者」の出自とその意味合い

西崎:「一者」ってどうですかね、形而上につながる「一者」ではないんですかね。ここって自己ではないと思うんですけど。

小田:今使った「一者」っていうワードは精神分析的な、70年代ラカン的な意味で。
精神分析ってザックリいうと「人の気持ちがわかんない」って話をするじゃないですか。僕が出した言葉と相手に出した言葉のあいだに横たわる深い淵。僕は今こうして話しているけれども、西崎さんが聞いたときには西崎さんが西崎さんなりに僕の言葉を受け止めて、西崎さんの中で言葉の意味をつくるじゃないですか。
で、僕が今言葉を発するときに認識している言葉の意味とそれ(西崎が想定する言葉の意味)は全く違うものですよね。コミュニケーションが生む言葉の連鎖っていうものをシニフィアン連鎖っていうんです。
シニフィアン連鎖の中で何が起こるかっていうのをラカンは徹底して突き詰めるんですけど、結局無根拠なんですよね。シニフィアンどうしには、絶対的な差異がある。ふたりの間(西崎と小田の間を指さして)にはどうしようもない断絶がある。
1975年に刊行された「アンコール」っていう講演集があるんですけど、そこで語られているのはとにかく「一者」なんだと。自己享楽的な営みとしての、ある種閉鎖した享楽と言語についてラカンは論じるんです。他人とどうつながるかっていう話をやめちゃうんですよね。
その話を想定しながら「一者」の論を思いつきました。「一者」の話をするんだったら、こういう(自己と他者の)構造がこの世界に存在している人間の数だけあるっていう考え方になるじゃないですか。被害者がAさんで加害者がBさん、っていう話にならないと思うんですよ。この世界のなかでは主人公はAさんだから、Bさんは隕石のように見えるかもしれないけれど、それは絶対的な立ち位置として固定されているわけではない・・・。

信濃:Aさんからみれば逆じゃねってこと・・・。

小田:そうそう、そうです。

信濃:うーん。

小田:そういう「一者」の話がそれぞれの文学者にあるっていう。

かなめ:やっぱりだから、世界は全体として図式化することができないっていうことだよね。

小田:そうです、そうです。まさに。

信濃:どうしても「一者」は特権化されてしまうっていう感じですかね。

小田:そうです、そうです。

■出会いの偶然

信濃:もうちょっとだけ今の部分の、荒木さんが書いている意味を考えてみたいんですけど。
さっき西崎さんが人と人の「出会い」っていうのが印象的だったという話をされていて。人と人の出会い。AさんがBさんと出会うのと、AさんがCさんが出会うのとでは、それが偶然の出来事として成り立つ場合と成り立たない場合がある。Bさんとは偶然の出来事が成り立つけれど、Cさんとはそもそも成り立たず、単なるすれ違いで終わる。そういうふうに書いているんじゃないですかね。

小田:そういうふうに書いてますかね…?
あれか。この本で書かれていたのは、偶然ていうのは数学的な事象じゃなくてあくまで哲学的な事象だと。その人の中でどう価値付けるかっていう話とすごい密接な関わりを持つのが偶然っていう概念なんだと。だから確率0.001だから偶然だっていう話じゃなくて、その個人の中で意味を持つからこそ偶然として認識される。偶然っていうのはそもそもアンカウンタブルなものなんだって話をしてるんですよね。どこだったか…

かなめ:話からすれば寺田寅彦っぽい気がする。

信濃:そんな気がする。106(ページ)?

小田:206(ページ)。

信濃:偶然性をその度合ごとに腑分けできる。だから、偶然のできごとっていうのは無数に今この瞬間も、お店のあそこに赤ちゃんのお客さんがいて、あそこに~~な人がいて、みたいな出来事があるんだけど、そんな中で僕らにとって価値ある偶然と価値ない偶然っていうのがある

小田:あるいは、意味のある、と言い換えてもいいかもしれない。

信濃:ここでもし、例えば僕の同級生がここを通りかかったら、僕にとってはすごい偶然だってなるけど、みなさんにとっては全然関係ない他人なわけで。

かなめ:なっちゃうかなー。

信濃:そういう意味でみなさん全員は「一者」なんだけど、例えば僕のクラスメイトが通ったら、僕とだけ(クラスメイトが)接触するっていう感じです。
だから、小田さんが言ったとおり偶然というのはすべて主観的であって、客観的な偶然ってのは存在しないっていうのが重要かもしれません。

小田:俺はさっき読んだからめちゃめちゃ覚えてる。

一同:(笑)

■<触れ-合>うために必要な主体

信濃:九鬼周造の「偶然性とは本質的に一者と他者の人間性のあるところに初めて存する」っていうテーゼを荒木優太はもうちょっと詳しく噛み砕いたときに、客観的な偶然ってのは存在しなくて、主観的な、主観次第で偶然ってのは形を変えるよっていう話をしている。
ここまでの話のそもそもは、ほんとに<触れ-合>えてんのか、<触れ-合い>っていう言葉が正しいのかっていうことだったけど、この例で<触れ-合い>って感じがしませんか?

小田:あー、まじですか?

かなめ:どういうこと?

小田:もうちょっと説明してください(笑)

信濃:だから・・・。

小田:ぶつかっちゃったみたいな感じですか?

信濃:さっきの例でいうと、僕のクラスメイトが通りかかったときに、全員が触れられているわけですよね。人が来るっていうことに関しては全員同じ条件なんだけど、僕がそいつを思い出すという僕からの能動的な反応によって初めて偶然の出会いが発生する、っていう意味で。
知らない人にとっては受動的に触れられているだけであって、それはほとんど無いのと一緒なんですよ。唯一僕から「おー!」って送り返すことで<触れ-合>っている。

かなめ:あー、誰でも<触れ>はするけど、<合う>ためには・・・

小田:主体の能動性が必要なわけですね。「わー!」っていうのが<触れ>られている中で、「お!」みたいな。

信濃:なんかそういうのが<触れ-合い>かなって思ったんですけど。

かなめ:文学でそのことをやるんだとしたら文字に起こすとか、文字にならなければそれは<触れ-合い>ではないし・・・。

読書会でのメモ書き風景

■主体は/が過去の海に浸る

小田:今の信濃さんのお話とこの本を引き寄せると、記憶っていうテーマがもってこいになるんだと思います。この本に記憶の下りありますよね。

信濃:ちょっと待ってください・・・。

小田:なかったらどうしよう。。。(汗)

西崎:索引には無い・・・。

信濃:索引には無いですね・・・。どういう感じの文脈でしたか?

小田:過去とか記憶・・・。ちょっと待ってくださいね。勝手に妄想して本の内容と混同する可能性が・・・。

信濃:あーありますよそれ。読みながら自分で書き直しちゃってる。

一同:(笑)

かなめ:ここってこうなんじゃね、みたいなね。

小田:フロイトとかってどこらへんですか?

信濃:フロイトですか。

小田:なんか精神分析の文脈で妄想したと思うんですけど、無意識って結局、記憶の累積じゃないですか。

信濃:あーありましたね。たまたま本屋で見た本が夢に出てきたって。

小田:そんな感じです。その無意識で満ち満ちた世界が人間には幸せなんじゃないかって話をフロイトの部分でしているんですよ。神経過敏になりすぎてやばくなったときに無意識に浸るのが一番幸せだって。

信濃:身を委ねようって。

かなめ:疲れちゃってね。

小田:疲れて無意識に身を委ねたいって話のときに、そこで問題になってくるのが過去の記憶の海の中で溺れたいみたいな。そこで何も考えずに偶然とかもなしに、安全な領域な中で、無意識の中でずっと過ごしていたいっていう欲望がその話だと思うんです。だから今過去の話あったじゃないですか。
信濃さんが同級生と会って「おー」みたいになって、能動性を発揮するっていうのは、ある種自分の殻に閉じこもっているっていうことでもあると思うんです。自分の記憶があるじゃないですか。自分の記憶の中に下半身を浸らせながら、今現在のときに半身を同時にまた出すみたいな。過去と今をまたいでいる時に、意味のある偶然と遭遇する主体っていうのが現れるのかなと。

信濃:その瞬間だけ中学生の自分に戻るみたいな。

小田:そうそう。半分中学生に戻るみたいな。

かなめ:その話になってくると、<触れ-合い>の話が<触れ-合い>なのかって。こもっちゃってて<触れ-合>えているのかっていう。その後で友人が「よう」っていう声に応えてくれて初めて<触れ-合い>なのかなと。まだ「よう」って言った瞬間は過去に浸っている中学生に戻ったときの自分で、応えてくれて初めて<触れ-合い>になる・・・?あるいは無視されても<触れ-合い>になる?

信濃:無視されたらならないんじゃないですか?

小田:どうなんだろう。その信濃さんの同級生のなかでも・・・?難しいな。<触れ-合い>っていうのかな?言わないんじゃないかな。

かなめ:(笑)

■異なる海で共有する固有名詞

信濃:ちょっと喋りながら整理しましょう。
同級生が来たとして、その同級生がこっちに気づく。「なんかじっと見てくる人がいる」と、僕ら四人とも気づいているんだけど、まだ誰だとは思っていない。その時に僕が彼をみて、「あ、あいつ中学の同級生だ」と認知するっていうことが、触れられたことに対して触れ返す感じなんじゃないですか。
それもお互いが「よう」とコミュニケーションを取るかどうか以前の問題で、まず相手が認知を最初にして、僕が彼をフッと思い出して特定した瞬間に触れ返している。たとえ目配せして結局なんにも言わないとしても、そこでは偶然の出会いが成り立っているんじゃないですか。ちょっと物語になりそうですね。

かなめ:もうそれは物語になっちゃってる。

小田:主体の中での実存的な話じゃなくて、この世界の物語として出会いを考えた時に偶然というものが・・・。違うレイヤーで考えるのか。

信濃:それ、ちょっと説明してください。

小田:いま、信濃さんが同級生と会うとするじゃないですか。そしたら信濃さんの中では信濃さんの半身が記憶の海に浸かっているんですよ。で、もう半身が今現在にあるんです。信濃さんは記憶の海に半身浸けることによって能動的に「あ、あいつだ」ってなるじゃないですか。「あいつだ」って信濃さんが思っていると同時に、同級生のほうも同級生の記憶の海に半身浸かって「あ、信濃さんだ」となる。でも、それって違う海に浸かっているから、なんかすれ違っているだけなんじゃないかっていうか。わかりますか?

かなめ:まあ、わかる。

信濃:すれ違っている・・・。

小田:なんていうか・・・。

信濃:おなじものを共有しているわけじゃないってことですよね。

小田:記憶は違うんですよ。だから何が同じなのかっていったら学校が同じなんですけど。

かなめ:学校が同じなんだよね。国が同じとかね。

小田:そう、固有名詞が同じなんだ。熱いな、これは。

信濃:固有名詞が同じ?

かなめ:作られた組織とかが一緒だっていうところでつながっている。

小田:固有名詞も(課題本の中で)出てきた気がするんだよねー・・・。

■交換不可能性から考える固有名詞

信濃:例えば交換可能か・不可能か、っていうものの価値判断があると思うんですけど。交換可能っていうのは、それでもよかったしそれじゃなくてもよかったってこと。交換不可能っていうのはそれじゃなきゃいけなかった。
僕がこの場でそういう出会いがあったときに皆さんにとっては交換可能、つまり別に誰でもよかったんだけど、僕にとってはそいつじゃなきゃ反応が起こらなかった。ある種それは偶然であると同時に必然なんじゃないですかね。

小田:過去とのつながりがあるかないかっていうところの話で、同級生との出会いは過去とつながっているから必然となる・・・。なんでしょうね、点じゃないんですよね。線になっているから、点と点が保証しあっているんです、互いの存在を。…難しいな。

信濃:保証しあっているっていうニュアンスはわかります。

小田:でも、今まで会ったこと無い人と会った時には自分の過去にあるどの点とも総合しないから、意味を持たないというか、自分の中で文脈ができない。

信濃:文脈ができて初めて出会いみたいなものが起きる。例えば外国で日本人がほとんどいないっていうところを歩いていた時に、たまたま日本人が歩いてきた。その日本人のことは知らないけれど、外国においてだと同じ日本人というだけで文脈ができてしまって、つい「こんにちは」と声をかけてしまう。それは立派な偶然の出会いになる。多分東京でその人達がすれ違っても全く出会いにはならないんですけど。そういう意味で、小田さんが言った・・・。

小田:文脈ですか?なんだろう。過去・・・じゃないなー、なんでしょうね。。。

西崎:場所・・・。

信濃:「文化的社会的な状況に左右される」みたいなことがどこかに書いてありましたよ、たしか。

■結局<場所>!

小田:結局場所なんですね。結局場所かー。。。。

かなめ:やっぱり書かれているそれぞれの道具を使えば偶然になる。<外部性>とか<感性>とか<断片性>、<場所性>を用いれば偶然になる。

信濃:Aさんってのは常に、日本人であるとか男性であるとか20代とかメガネかけているとか・・・。

小田:アルゴリズム的ですね。

信濃:そういうもので出来上がっていると思うんですけど。例えば〇〇中学校出身だとか。そばをいろんな人が通り過ぎていって、例えば東京では同じ日本人、男性、20代であるってことだけでは反応しないんですけど、例えばお互いベトナムですれ違った時に同じ日本人であるということが重なるだけで出会いが発生する。東京で言えば同じ〇〇中っていうのが重なって初めて出会いになる。こういう要素の序列があって、それが重なったところで反応が起きるっていう。

小田:反応が起こったっていう現象について、この本には書いてなかったですけど、人がいるところが場所なんですよ。わかりますか・・!!!

かなめ:わかりますよ・・・!(笑)

信濃:続きを聞かせて?(笑)

小田:(笑)
人が誰もいなくて物理的な場所とかじゃなくて、なんだろう、場所が大事って話があったじゃないですか。場所は人が構成するもので、人が違ったら場所も違うんですよ。場所が違うとか人が違うとか、その人と自分との共通点も異なってくるじゃないですか。共通点があったりなかったりするんですけど、その他者と触れ合うたびに偶然としてその人の共通点があって、その人との共通点が認識できた時に出会いとか<触れ-合い>っていうのが起こるっていう話になりませんか?

かなめ:見えないといけないんですか?

小田:そうです、そうです。意味があるっていうか、「お!」ってなるのは信濃さんにとっては意味があるけど、僕たちにとってはあんまり意味が無いじゃないですか。意味がない<触れ>、接触なんだけれども、信濃さんにとっては意味があるから<触れ-合い>になる。信濃さんと同級生との共通のものがあったからこそ、それが認識できたからこそ、同じだってなって、<触れ-合>った、みたいな。そういうことですよね。

信濃:そうですね・・・。

小田:<触れ-合い>ですね。。。(笑)

■<場所>に基づくアイデンティティと自己反省

信濃:西崎さん、どうですか? <触れ-合い>って言葉がふさわしいのかどうかっていう議論でやってきましたけど。

西崎:今の話は自分の内面に向かっていくものが、海外にとか、知っている人もいないとか、だから逆に人とつながりたいってことに行くのかなと。
孤独になって、孤独になればなるほど内面に向かっていって、それが自分の人と同じようなものを持っている人、例えば日本人じゃなくて韓国人かもしれないっていうそういうことがあるかもしれないですけど、それと出会うことで自分とか意識が向かうことで・・・。

信濃:<触れ>たっていう。

小田:いま西崎さんが話していた自分の内部っていうのは自分の考える自分みたいな感じですか?

西崎:自分のアイデンティティとか、そういう部分とか、それこそ自分そのものっていう。

信濃:アイデンティティってのは自分がこうである、こういう人間である、自分が考える自分とも言えますね。

西崎:そういうところと向かい合ってきたところで、「あっ」って思う。ここってつながってくるんじゃないですかね。

信濃:近代文学の議論には詳しくないんですけど・・・。

西崎:なんとなくのイメージですけど、夏目漱石がロンドンに留学した時に原体験じゃないですけど、そういうのがあったのかな。

小田:夏目漱石って、確か日本で一番最初の国費留学生で、イギリス行ってるですよね。イギリス行ってやっぱ小説書きてーなって思ったらしいんですけど、日本語で書くか英語で書くかみたいな話で、だいぶ迷ったらしいんですけど、やっぱ日本語で書くんだっていう葛藤の末の決断があった。
その時に、日本語と英語が言語としてどういう特質を持つかっていう話とは別に、自分という人間がどういう言葉を用いているのかってことに関して、自分は何者なのかということを問うたんですよね、漱石は。そこの話ですよね。西崎さんが話していた、自分とは何かっていう問いは。

かなめ:自分が使う言葉がどういう言葉なのかっていう意味合いでの、自分が使う言葉をどういうふうに選ぶかってことを考えんがために、自分を考えていたってこと?

小田:そうですそうです。言葉を通じて、自分をどう位置づけていったらいいか自分がどこにあるのかってことを考えていたんだと思う。

信濃:それってつまり、アイデンティティっていうのは砂漠に自分が一人でいてもわからなくて、他人がいないと自分のアイデンティティっていうのははっきりしない。周りがイギリス人ばっかりになると果たして日本語で書くのがいいのだろうか、俺も英語で書かなければいけないんじゃないかって、アイデンティティが揺らいじゃうってことですよね。
例えば外国に行った時に、アメリカなりなんなりをウロウロしていて、前からアジア人っぽい人が歩いてきたときに、自分のアイデンティティは日本人である以前にまずアジア人になっている。中国人であろうが韓国人であろうととにかく話しかけたいわ、みたいな。

小田:どうでもいいんだ、そんなことは。みたいな(笑)

信濃:まず俺はアジア人だ、同じ顔してるじゃないかって。そういう意味ではアイデンティティっていうのは他者を鏡みたいにして変わっていくというか、そういうイメージでしょうか。

小田:その都度その都度、出会う方との共通点と違いを照らし合わせながら、そこで同じところは同じで、違うところは違うっていう。同じところと違うところがそのまま自分のアイデンティティになってくるって感じです。
でもそれって道徳の授業ですごいよくない話だって聞いた気が。受験のときにそういう文章を読んだな。他者との関係の中でアイデンティティを見つけていくのは甘いみたいな。

信濃:そんな話があったんですか?

小田:本物は・・・。

一同:本物・・・(笑)

小田:本物は過去で自分のアイデンティティを認識するんだっていうんですよ。自分が歩いてきた時間の流れがあるじゃないですか。もし他者との違いが並行的なもの、並列的なものだとしたら、垂直軸で自分を認識しろ。それが本物だって。

かなめ:反省しろ的な?

小田:そうそう。そうしたらお前の本当のアイデンティティ得られるぞって。「それが本当のお前」だって。

信濃:他人の目を気にするなってこと?

小田:そうそう。他人が違うってことはどうでもいい、お前はお前って感じで、歴史みたいな話してきたんですけど。

信濃:それって俺には日本があるからみたいな、ナショナリスティックな考え方ですね。

小田:まさに。伝統ですよね。そういう感じになっていく。すごい頑固になっちゃう。

信濃:日本人はどこにいっても日本人のままだって話になっちゃう。

小田:「ジャパン」みたいなね(笑)

つづく・・・。

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