Takuma Tsuji
deline.exblog.jp by tsujitakuma
8 min readNov 28, 2018

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壁と卵とねもはと僕

2010年 12月 27日

「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」ということです。
※1 作家・村上春樹は、資本主義社会に代表されるどうしようもなく不可避で強大なシステムへのアンチテーゼを示すポーズとして、彼は常に弱者、マイノリティ、個人、反権力の側に立つんだ、とエルサレム賞授賞式という公の場で、宣言した。

村上の言葉を借りるのは少々大げさかもしれないが、相対性を示すために使わせていただくと、「卵」の中の「卵」とも言える、ささやかな書籍がこの冬刊行されたことを伝えるべく今私はキーボードを叩いてみる。村上の言う「卵」、という意味と質をこの本を引き合いにして明らかにしてみよう。ということでも僕のキーボードを叩くモチベーションは保たれている。

この書籍の名は、「建築同人誌ねもは」

編集したのは、横国時代の同級生でもある東北大学五十嵐研究室所属・市川紘司を中心にした東北大学の有志学生である。 建築同人誌というだけあって、その内容には建築の専門的な言説が収められている。 特集「絶版☆ブックガイド40」では、電子書籍化元年を迎えた2010年の時点で絶版になった建築の専門書籍を取り扱い、1980年代生まれの若い世代の書き手がそれらの書評を記し、膨大な文字情報とともに絶版本を現在に召喚した。電子書籍化が進めば、絶版というその存在自体が消えるであろう。ちなみに私も「日本列島の将来像」(丹下健三)の書評を僭越ながら記し、今回の特集に参加しているし、市川くんの軌跡にも共感している。

彼とは友人として過ごした期間は長いし、今回僕はこの本の特集に参加しているのだからそもそも客観的な書評が成立するかどうかはなはだ疑わしいが、どう頑張ったって彼を知っている僕が書ける文章しか僕には書けない。書きたくなっているから書いているだけ。

話はそれたが、書評に戻ろう。この特集に加えて、エッセイ3集、大室佑介氏による「同世代の橋 ─ U-30展覧会について ─」、斧澤未知子氏による「私の考えによると(現象とその表面、都市)」、加茂井新蔵氏による「疑似建築試論2 キャラ化する建築/家」がそれぞれ同人誌という枠組みを有に超える質を担保した文章が展開されている。 若い世代の書き手を初めて可視化させたことの価値や、その新世代による絶版本レビューという企画自体の強度、エッセイの固有性などが一般的な評価だろう。概ねいい感じだと思う。

さて、この本を読んでみて素直に僕が気づいたことを言えば、なんだか、みんな言葉や言い回しが難しいってことだ。同世代とは思えない語彙と文章力が詰まっていて、変に学生っぽくない感じが読み進めていく途中で気にかかっていた。 僕個人としては、専門性を纏った難しい言葉で難解に見せるよりも、平易ですぐに届き得る文章に実感を持つので、この難しい感じは僕とある程度文章力も知識量も同じくらいであろう同世代が書いた、という事実に上塗りされる形で違和感に変わっていったのであろう。少なくとも、論客ばかりがひとまずメタ言説を披露すると分かっている10+1だったらこんな違和感はなく、難しさをひたすら受け入れていたのだろうなと思っていた矢先、市川くんが建築系ラジオで、「10+1や建築文化の難しいメディア休刊によって失われた若い世代の文章を書くチャンスを与えたい」という説明していて、勝手に、少しの共感とその共感よりも量が多いであろう申し訳なさを感じた。 いずれにせよ、難しいことに代表される消費への対抗に、僕は違和感がある。 しかし、このような違和感は、一通り熟読してみて、紙面に散りばめられた(散りばめさせられた)編者の意図が自分の中で一本にまとめられた時に消えた。 僕が時間をかけて実感した市川くんのまずもって伝えたかった意図というのはつまるところ、 「今考えられ得る『卵』の側を、ひたすら突き詰めて提示する」 ということに尽きる。

ところで意図を伝える時には、

  • 専門性を纏った難しい言葉で難解に見せる→読者に時間をかけた解釈を要求
  • 平易ですぐに届き得る文章→読者に解釈の時間をかけさせず、直接的な解釈を提供

という大枠して二種類の方法があるように思うのだが、この二者の比較で言うと「卵」は難しい方で、「壁」は平易な方だろうと思う。何故ならば、現在において圧倒的な「壁」である資本主義システムが要求するのは、流行しやすい薄っぺらい中身のない商品で、その商品たりうるのは難しい言葉よりも平易な方だから。だって時間かかって面倒でしょ?難しい本読むのはさ。(多分、文章と建築というのは似ていて、建築も消費されては困るということを暗に(あるいは明らかに)言いたいのだろうな、市川くんは。と思う。ことは自明かもしれなけれど言葉にしておく。)

だから、(「卵」側を擁護するだろう)市川くんが選択肢したのは後者の伝え方で、専門性を担保しよう、意図を時間をかけて伝えようとしたのではないだろうか。難しい文章、編集チームである菊池氏と加藤氏の書評にひっそり忍ばされた「ねもは」への自己言及、市川くん自身の書評担当書籍のスタンスが徹底的に卵側であること、絶版というそれ自体卵的性質(売れなかった)を持ったものを取り上げること、同人誌という卵的弱小媒体、わかりやすい絵やビジュアルイメージと比較すると消費されにくい文字データを中心にした紙面構成、など随所に散りばめられた「卵」的なるものへの擁護を実感すればするほど、「難しいこと」への違和感は消えていく。

おっと、僕はそもそも難しい文章の価値を実感出来なかったから、今もこうしてある程度平易な文章を書いているのである。 難しい文章の価値、時間をかけて実感出来たじゃん→僕はこの本によって、難しい言葉と優しい言葉を相対化可能になった。という事実としての結果をこの本は私に提供してくれたと言えよう。

でもそれは僕が優しい文章を今ままで書き続けてきたから実感できた相対化であって、そういう相対化が既に済んでいる人や、難しい文章の価値を実感してきた人にとっては、この相対化は起こっていないはずだ。差異がなければ、あるいは差異を認識出来なければ、情報や情感の交通は起きない。

今この分脈で僕が何を示したいのかということを説明してみる。

村上春樹はエルサレム賞、という権威(ある意味では「壁」)に擁護された状態で「卵」を擁護するという転倒したスタンスを示したからこそ、この卵は救われたのである。「壁」と「卵」は表裏一体でこそ、現在に存在することができる。「壁」と「卵」はその差異を認識させなければ「壁」にも「卵」にも成り得ない。

翻って、極端に卵的なものを突き詰めた結果である「ねもは」はどうだろう?あるいは、「ねもは」が抱える壁的なものとはなんだろう。

言わずもがな、市川くんの師にあたる五十嵐太郎氏だろうと僕は認識している。

もし、現代に置ける建築言説の潮流を引き起こしている「五十嵐太郎」の名前がなかったら(いや、ないアピールはしているだろうけどさ)この卵的なものは現在に落ちては来なくて、誰にも知られずに割れて壁にちょっとしたシミを残すに留まっていただろう(僕達にはインターネットという卵側には心強い武器があるのにも関わらずこの予想に対する個人的な確からしさは結構ある)。例えば先日twitterで簡単な議論がなされ「ねもは」が注目されたきっかけは五十嵐氏が企画に携わる建築系ラジオで取り上げられたことがきっかけだったし、編集後記にも「五十嵐太郎」の名前はひとまず召喚されている。

そこまで踏んで、この「ねもは」は大変に周到に刊行されたのだと思う。この凄まじい計画性を僕は認めるし賞賛したい。

だからこそ、求められるのは、継続していくということの先に、(「卵」的なものの方向性を突き詰めると同時に)「壁」的なものの方向性も突き詰めるということだと、私は思う。

いかに権力を担うか、いかに消費を逃れるか、その両極を連続した形で同時的にデザインする必要があるだろう。マニフェストを掲げずに唐突に文面が始まったとして、彼の擁護する先が「卵」であればあるほど、市川くんは「壁」に倚りかからなければならない。既得権益とうまく付き合っていかなければならない。これは、この厚く高く囲われた壁を認識することや、その壁の一部に自分が吸収されることを実感することは、「卵」的な価値観を示したい人間にとってはものすごくストレスのいる行為である。

哲学者の西田幾多郎は「世界は客観的には、全体的一と個物的多との矛盾の自己同一」と言っている。というかそもそも空間や時間を現在に引き寄せるのであれば、一つの環境が支える「卵」と「壁」の差異は大きければ大きいほど良くて、極限まで差異が広がると西田の言う「絶対矛盾的自己同一性」が達成される。 だから、市川くんが何かを恐れる必要は、全くない。

※1村上春樹エルサレム賞スピーチ全文 http://www.47news.jp/47topics/e/93925.php

by tsujitakuma | 2010–12–27 11:31 | book

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