自信

Self‐confidence


自分を信じる。

自己不信に打ち勝ち、未踏の分野に進む。

自信とはすばらしい言葉だ。

ただし、言葉がすばらしいことと意味するものがすばらしいことは必ずしも一致しない。

私は自信のある人の弱さに対して不信感を覚える。

自信のある人の弱さは、自分に問いかけることの少なさにある。

自分を信じているのだから当然のことなのだが、立ち止まって自問自答をする間髪を入れない。

その性質は、自信のある人に2つの結果をもたらす。

1つめは、自分の弱さを肯定、明言し、さらにはそれを自身の強みだと変換して消化する。

2つめは、立ち止まって自問自答すべき事柄に関してはことさらスピードをあげて走りきろうとする。

両者ともに、年を重ねれば重ねるほど上手になり、自然になり、説得力も増す。

こういう人は得てして人脈も広がりやすいし、勝負も打てば戦略もたてる、スピードも速いときたもので、人生も成功もしやすいだろう。

しかし私は、そういう人がどうなるかを、幸か不幸か見てしまった。

そういう人は、やがて自分を信じられなくなるという状態に対して怯えを抱き始める。

そして、ことさらそれを自分で認められない。

周囲はその恐怖が目に見えるのに、本人だけが認識しようとしない。

だが、自分を信じる礎になってきた技術であったり思考力であったりは、やがて老いとともに衰えるのだ。

その不安を、どうしようもない時間の流れを、自信という謎のエネルギーは素直に受け止めてくれるだろうか。

私は、自分が信じられなくなるのは自然なことだと思う。

自分ほど複雑なものはない。

シンプルな周囲を複雑にとらえるのは、自分自身なのだから。

自分なんて不可解なことだらけだ。

他人なら見えない不可解な回路、謎の感情を全て知っていればこそ、

よけいにつじつまが合わない。

そんな自分を信じろと言い聞かせていることもまた、不思議だ。

だから、自信を持つ、ということ自体が、やはり何かの甘えや弱さの現れであって、自信家には自信家の決定的な穴があるはずだ。

自信を持っている、ということすら忘れるほどに自分という存在が希釈され、そよめくようなアイデンティティを持っていること。

それでも、成果や行動が、季節が巡るように当たり前に実行できること。

それが一番、自分を信じている、自信に近いものなのではないか、と思った。