板書とノートの未来
昨日、学内の先生方を対象にOffice365の活用について講演をさせていただいた。
その中で、せっかくならってことでWord文書をOneDriveから共有し、講演中の疑問/質問を書き込んでもらうことにした。
今日になって、講演直後よりも質問が少し増えていることに気づき、簡潔に回答を書き加えて先生方に改めて周知。
こうすれば、授業中に主体的学習をさせながら、声にならない疑問/質問を集約して皆で共有できるなと思った。そこで、ふと思う。
- 授業中、教室内の全員が一つのノートを共有していてみんなが読み書きできるとする。
- そうすると、旧来から行われてきた「板書の書き写し」は、タイピングが得意な数名がやればいいことになる。
- 図が出てきたらスマホで写真を撮って挿入すればいい。
- 黒板に書かずに口頭で述べられた内容だって、高専生ならタッチタイピングで遅れなく入力できるだろう。
BYODが前提ではあるが、近い将来こんな風景が見られるのではないかと想像する(すでにあるテクノロジーばかりなので、やろうと思えばすぐにでもできるはず)。授業の記録を取ることがこれだけ容易になれば、「黒板に書くこと」自体によほどの意味がないと、最初から資料を配布するのと何ら変わらないのではないか。
そこで、最後の砦として思い浮かぶのが「手で書きながら(手を動かしながら)聞いた方が頭に入る」という脈々と伝わる説なのだが、これがどうしても根拠となる原著を見つけることができない。
手を動かすことで脳を活性化させるというのはなんとなく理解できる。しかし、本来は手を動かすという動作は「考える」ことに寄与するのではないか。それが、いつの間にか「生徒に手を動かす動作をさせること」が目的となり、プリントで配布すれば済む資料をわざわざ黒板に書き、「覚えさせる」ような授業が主流になっちゃったんじゃないかと邪推までしてしまう。
アクティブラーニング全盛の現代、教える側も学ぶ側も変わらなければならない。「書き写し」を前提とする授業方法の見直し。「書き写す」というノートの取り方の見直し。
「そもそもいまどきそんな授業やってねぇよ」とお叱りを受けるかもしれない。誰かの授業を見たり受けたりことから遠ざかっていることも大きな問題だと思う。こと本務先に関しては、自分以外の授業を見る機会が極端に少ない。だったら、見なければ。
とりとめもなく、徒然に。