あらゆる自然原理の必然性と偶然性の両面からクロスしあって、
多くの物事を一度に知ることのできる「理」が集まる点が存在する。
神話の世界、粘菌、大乗仏教の研究を通じて
生命の実相に肉薄せんとした南方熊楠は、
このイ点を、彼自身の造語で
「萃点(すいてん)」
と呼んだ。
萃点から観れば、
あらゆる事象を受け止め、活かしやすくなる。
量子力学や仏教の本質も掴みやすくなり、
シンクロニシティやセレンディピティがより身近になる!
そういう莫大な可能性の扉を開く鍵が「萃点」に秘められている。
考える価値のある仮説である。
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問いに答える人は、秀才。
問いを発する人は、天才。
そういう意味では熊楠は、
偉大な問いと仕事を後世に残した
「希代の変態的天才」と云える。
・あらゆる物事の理が交わる1点なんて本当にあるのか?
・あるとしたらどういう実相なのか?
・もしこの萃点を感得できれば、
「計画的偶発性」を「必然化」することができるのでは?
しかし、萃点は中心ではない。
中心にあると命令することになり、中央集権制みたいになる。萃点とは、
そこですべての人々が出会う出会いの場、交差点みたいなもの。そして非常に異なるものがお互いにそこで交流することによって、
あるいはぶつかることによって、影響を与え合う場。
そう!
中心かと思いきや、中心ではない。
さらなる疑問が止まらなくなり、
脳内にビッグウェーブを巻き起こす。
・萃点(イ点)は一点に見えるが、
中心がないなら本当はどうであるのか?
・一点と交差点という矛盾が、一体どのように同居しているのか?
これは答えなき問い。
この生きた問いが、
「生解(Living-Solution)」を引き出す。
熊楠が残した偉大な仕事を形にするのが、
私たちの世紀の大仕事である!
自己探訪の旅は続く。