「萃点」を巡る問い

修理固成
Cre888
Published in
2 min readJul 13, 2017
南方曼荼羅の「萃点」

あらゆる自然原理の必然性と偶然性の両面からクロスしあって、
多くの物事を一度に知ることのできる「理」が集まる点が存在する。

神話の世界、粘菌、大乗仏教の研究を通じて
生命の実相に肉薄せんとした南方熊楠は、

このイ点を、彼自身の造語で

「萃点(すいてん)」

と呼んだ。

萃点から観れば、
あらゆる事象を受け止め、活かしやすくなる。

量子力学や仏教の本質も掴みやすくなり、
シンクロニシティやセレンディピティがより身近になる!

そういう莫大な可能性の扉を開く鍵が「萃点」に秘められている。
考える価値のある仮説である。

▼ ▼ ▼

問いに答える人は、秀才。
問いを発する人は、天才。

そういう意味では熊楠は、
偉大な問いと仕事を後世に残した
「希代の変態的天才」と云える。

・あらゆる物事の理が交わる1点なんて本当にあるのか?

・あるとしたらどういう実相なのか?

・もしこの萃点を感得できれば、
「計画的偶発性」を「必然化」することができるのでは?

しかし、萃点は中心ではない。
中心にあると命令することになり、中央集権制みたいになる。

萃点とは、
そこですべての人々が出会う出会いの場、交差点みたいなもの。

そして非常に異なるものがお互いにそこで交流することによって、
あるいはぶつかることによって、影響を与え合う場。

そう!

中心かと思いきや、中心ではない。

さらなる疑問が止まらなくなり、
脳内にビッグウェーブを巻き起こす。

・萃点(イ点)は一点に見えるが、

中心がないなら本当はどうであるのか?

・一点と交差点という矛盾が、一体どのように同居しているのか?

これは答えなき問い。

この生きた問いが、
「生解(Living-Solution)」を引き出す。

熊楠が残した偉大な仕事を形にするのが、
私たちの世紀の大仕事である!

自己探訪の旅は続く。

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